隣松寺のたび - 2021年9月なのか

2021.9.7 (13) 隣松寺 - 山門 2000-1500

末野原(すえのはら)交流館で全自治区だよりが掲示してあるのをみたのがきっかけだった。隣松寺(りんしょうじ)自治区が幸町(さいわいちょう)自治区とは独立してある。上野城をおとずれたときに、一向一揆に対抗すべく徳川家康隣松寺に本陣をおいたってことはしっとっただけど、てらのなまえがほのまま地域のなまえにもなっとって、行政上属す幸町から独立して自治区になっとるだ。

経路は鴛鴨街道(おしかもかいどう)こと県道230号鴛鴨あんじょう線をとおっていくことにした。鴛鴨あんじょう線ってなまえだけはしっとったけど、ほれがわがあんじょうしからほのまま隣松寺につながることをしって、この街道をとおっていった。

たびは、鴛鴨街道の道中に粟寺村(あわでらむら)を発見。江戸時代の三州八郡地理之図にはのっとるのに、いまはどこのまちになるのかわからんかったとこだ。おまけに、もともと沖積平野にあったこの粟寺村が、江戸時代になって碧海台地(へっかいだいち)のうえにあがったっていうことがわかって、びっくり。あがっていったさかのなまえが平兵衛坂(へいべえざか)。また、国江村(くにえむら)も発見。

隣松寺は、ほのりっぱさにいきをのむ。こんなちいさなまちにこんなりっぱなてらがあったとは。隣松寺をみたあとは鴛鴨街道を終点までたどってみる。また、かえりに隣松寺のまちのきたに、鴛鴨城ゆかりのおひめさま、とのさまのはかを発見。歴史をしっかりあじわうことができた。

〔平兵衛坂〕
〔隣松寺〕
[三州八郡地理之図]

◇            ◇

2021年9月なのか、かようび、あさ8時40分、ふるいのわがやをきたにでて、ファミリーマートあんじょう宮前店にたちより。8時53分、さいしゅっぱつ。上郷街道をきたにいく。

東海道線をこえて、安城東高校西交差点を鈍角に右折。鴛鴨街道にはいる。

2021.9.7 (2) 鴛鴨街道ふみきり - 豊橋いき特急 1580-1180

碧海台地を東北方向にすすんで、名古屋本線ふみきりまち。にしいきにあっかい電車、ひがしいきにパノラマスーパーがいくのをみおくって、またすすむ。

2021.9.7 (3) 鴛鴨街道 - 尾崎町交差点 1590-1180

尾崎町交差点で国道1号線をよこぎり。よこぎってすぐにみちがおおきくみぎにゆみなって、進行方向がひがしむきにかわる。

東海道をひだりななめによこぎり。

2021.9.7 (4) 鴛鴨街道 - 柿碕町交差点 1590-1180

柿碕町交差点を直進。柿碕町公民館のとこでみちがおおきくひだりにゆみなって、また進行方向が東北方向にかわる。

開析谷(かいせきこく)におりて、また碧海台地にあがる。

2021.9.7 (5) 鴛鴨街道 - 小針交差点 1550-1190

小針町南交差点で西三河南部環状道路をよこぎって、またすぐに小針交差点で平針街道をよこぎる。

2021.9.7 (6) 鴛鴨街道 - 北野町つきあたりT字路 1560-1200

ひだりに三菱自動車岡崎工場のへいをみてすすんで、つきあたりT字を左折。

長瀬きたどおりをちょこっときたにすすんで、北野町交差点を右折。また単独の鴛鴨街道になって、きたにすすむ。

2021.9.7 (7) 鴛鴨街道 - 北野大訳バス停 1710-1320

北野大訳(きたのおおわけ)バス停で市民病院いきバスのあとについて、すぐに愛知環状鉄道をくぐる。

2021.9.7 (8) 鴛鴨街道 - 桝塚東町中郷交差点 1600-1200

まえをいく市民病院いきバスはおらんくなって、桝塚東町中郷(ますづかひがしまちながごう)交差点を直進。

平兵衛坂

2021.9.7 (9) 粟寺村 - 平兵衛坂 1560-1200

さて、くだりざかをおりていったひだりがわに平兵衛坂(へいべえざか)のいしぶみを発見。平兵衛坂ってなんだ。わきの説明がきをよんでみる。

2021.9.7 (10) 平兵衛坂 - 「粟寺村のやまあがり」 1580-1180

粟寺村のやまあがり

1699年7月16日、水害にくるしんどった粟寺村(あわでらむら/桝塚東町の旧名)にすむ28戸は、やまあがり(低地の福地(ふくじ)からたかだいの現在地への移住)を岡崎藩主にねがいでた。ほのときの庄屋が、平兵衛(へいべえ)であった。

さかの名称は、やまあがりのために尽力した平兵衛の遺徳をしのんでつけられただらあ。なお、このさかは碧海台地(へっかいだいち)の段丘崖(だんきゅうがい)にあり、「がけのさか」ともよんどる。

桝塚東町自治区

いや、ここが三州八郡地理之図にのっとるあの粟寺村なのか。ほいで、江戸時代になってやまあがりしたっていう。沖積平野から碧海台地にあがっただ。わがふるいのまちも、縄文時代から弥生時代にかけて沖積平野にすんどったひとたちが古墳時代になってやまあがりしたはずなだけど、ほれをこんな時代をくだって江戸時代になってからやったまちがあるとはおどろきだ。

いしぶみのみぎめんに「ますづか風土記出版記念」、ひだりめんに「県道230号鴛鴨あんじょう線」、うらめんに「2009年3月」ってかいてある。こうやってちゃんと祖先のやまあがりの歴史を印刷物やいしぶみにしてのちのよにつたえるとりくみ、すばらしいな。

2021.9.7 (11) 家下川 - 粟寺橋 1600-1200

平兵衛坂をくだりきったとこで家下川(やしたがわ)にかかる粟寺橋(あわでらばし)をわたる。はしのむこうは、いちめんのたんぼ。粟寺村の先祖はこのはしのむこうからやまあがりしてきただ。

畝部西町城ケ堀(うねべにしまちじょうがぼり)交差点をすぎたすぐひだりに、国江集会所と常夜灯を発見。いまは畝部西町になっとるけど、ここが三州八郡地理之図にのっとる国江村だ。

隣松寺

2021.9.7 (12) 幸町隣松寺交差点 1600-1200

たんぼんなかをきたにすすんで、幸町隣松寺(さいわいちょうりんしょうじ)交差点にとうちゃく。この交差点でまじわる東西のみちからむこうが隣松寺のまちだ。交差点のきたにいしづくりの常夜灯。交差点からきたにふたまたにわかれるみちはひだりがわのみちにはいって、すぐに左折。にしにちょこっとすすんで、クルマ1台とおるのがやっとっていう間隔のせばいいしづくりの門柱をくぐると、みぎに隣松寺のてらがあらわれる。いや、いかにも戦国のにおいのするてらだ。徳川ゆかりのてらってふんいきもしっかりある。けっきょくてらの正面は東西のみちにめんしたがわだった。てらはみなみむきにあっただ。

2021.9.7 (13) 隣松寺 - 山門 2000-1500

さいしょに、あうん仁王像のかまえる山門がある。簡潔なつくりだけどりっぱな山門だ。おくに一直線に中門と本堂がみえる光景もすばらしい。わきの由緒がきをよんでみる。

2021.9.7 (14) 隣松寺 - 由緒がき 1850-1500

隣松寺

当稲荷山隣松寺は、人皇53代淳和天皇(じゅんなてんのう)第3皇子東山親王国長公当地に配流(はいる)843年薨去(こうきょ)、隣松院殿一位相国大居士と号し、従兄弟仁明天皇(にんみょうてんのう)、追善のために当山を草建されたとつたう。当初は、天台宗、明徳年間(1390年から1394年まで)明浄土宗に改宗され、現在にいたる。徳川氏との関係はふかかった。

寺宝(豊田市文化財
1.徳川家康公安堵状、徳川将軍朱印状
1.徳川家康公木像、甲冑三尊像各1体
1.雲版1面、華曼10面
1.善導大師筆、観音曼荼羅1軸

豊田市教育委員会

800年代っていうおおむかしに、この地にしまながしにされてなくなった皇子のためにこのてらをたてただ。徳川氏との関係はふかかったとのこと。ほや、一向一揆に対抗すべく徳川家康がここに本陣をおいたぐらいだ。

山門をくぐっていって中門のてまえみぎに、うちむきに稲荷堂。

2021.9.7 (15) 隣松寺 - 中門 1480-1980

中門はこれまたりっぱなもんで、2階がかねつきどうになっとる。みぎてまえに「法然上人三河25番霊場|第22番隣松寺」のいしぶみ

2021.9.7 (16) 隣松寺 - 本堂 1980-1470

中門をくぐっていって本堂。よせむねかわらぶきの簡潔なつくりだけど、ちからづよさをかんじさせる。

2021.9.7 (17) 隣松寺 - おくり 2000-1500

本堂からみぎにつながっておくり。本堂ともどもいちだんたかいとこにあって、まるで要塞のおもむきだ。

2021.9.7 (18) 隣松寺(りんしょうじ) - 本堂のなか 1800-1350

本堂にあがりこんで、おまいり。ぴっかぴかだ。

2021.9.7 (19) 隣松寺 - 本堂のなかのシャンデリヤ 1800-1320

天井にシャンデリヤまである。てまえにひとつ。おくにもひとつ。

ところで、わきでおとこのひとたちがなんかやっとる。おてらで音楽会でもやるのかっておもってきいてみたら、消防の点検中とのこと。

2021.9.7 (20) 隣松寺 - おくりの廊下 1800-1350

みぎにおくりをのぞいてみる。本堂といいおくりといい、りっぱとしかいいようがない。

2021.9.7 (21) 隣松寺 - 成田環さんのえ 1480-1880

本堂にもどって、にしがわのかべに成田環さんのえ。このひとのえは、なんかいか展覧会をみにいったことがあるだけど、このてらとなんか縁があるだ。

◇            ◇

幸町隣松寺交差点にもどって、こんどは交差点からきたにふたまたにわかれるみちをみぎがわのみちにはいっていく。こっちが鴛鴨街道だ。

2021.9.7 (24) 鴛鴨街道(おしかもかいどう) - 豊田ジャンクション 1600-1200

たんぼんなかをすすんで、東名高速伊勢湾岸自動車道のまじわる豊田ジャンクションをくぐっていく。

2021.9.7 (25) 明治用水 - 中央橋 1600-1200

沖積平野から碧海台地にあがったとこが鴛鴨のまち。住宅街のなかをすすんで、明治用水につきあたったとこに中央橋。

2021.9.7 (26) 明治用水 - 鴛鴨橋 1800-1350

中央橋を右折して、明治用水のひとつかみに鴛鴨橋。こないだおしかものたびできたとこだ。

2021.9.7 (27) 明治用水 - 鴛鴨橋からしも 1800-1330

鴛鴨橋からしもをみる。おしかものたびのあとに明治用水の水のかんきょう学習館をたずねて資料をもらってわかっただけど、そもそもこんなまちのなかに明治用水をとおす予定じゃなかったもんを、工事にあたった愛知県庁が強引にここをとおしたらしい。

鴛鴨橋を左折して、鴛鴨街道をきたにすすむ。明治用水のとこでみぎクランクして鴛鴨街道はまんだつづくだ。

2021.9.7 (28) 鴛鴨街道 - 鴛鴨町新林東交差点 1600-1200

まちのきたのはずれまでいって、鴛鴨町新林東(おしかもちょうしんばやしひがし)交差点。ここが鴛鴨街道の終点になる。いまはここでまじわる東西の道路が幹線道路で、クルマがひんぱんにいきかう。おしかものたびのときも、上郷街道からひがしにこの幹線道路にはいってきた。

2021.9.7 (29) 鴛鴨街道 - 鴛鴨町新林交差点 1560-1200

鴛鴨町新林東交差点のひとつにしに鴛鴨町新林交差点。鴛鴨町新林東交差点てまえのふたまたをひだりにはいるとここにくるだけど、こっちがもともとの鴛鴨街道の終点だったようにおもえる。

2021.9.7 (30) 隣松寺 - おみつのはか 1980-1480 2021.9.7 (31) 隣松寺 - おみつのはか説明がき 2000-1500

鴛鴨街道をひきかえす。隣松寺のまちにはいったとこで、ひだりにおみつのはかを発見。おしかものたびのときに鴛鴨城址をみてきただけど、ほの鴛鴨城ゆかりのおひめさまのはかがこんなとこにあるだ。わきの説明がきに、「おみつが養母としてそだてた福松丸が、のちに清洲城松平忠吉になった」ってかいてある。

2021.9.7 (32) 隣松寺 - 榊原清長、長政の墓所説明がき 1980-1480

さらにほのちょこっとみなみに榊原清長、長政の墓所を発見。一角にたっとる説明がきに、「榊原清長、長政は徳川四天王榊原康政の祖父とちちにあたる」ってかいてある。いや、ほんとに三河は徳川ゆかりの地だ。

2021.9.7 (33) 鴛鴨街道 - 隣松寺国江間 1580-1180 2021.9.7 (34) 鴛鴨街道 - 畝部西町城ケ掘交差点 1600-1200

また鴛鴨街道をみなみにすすんで、ふるいにかえる。

三州八郡地理之図 - 碧海郡東北部 640-680
△ 三州八郡地理之図 - 碧海郡東北部


(さんこう)