末野原(すえのはら)交流館で全自治区だよりが掲示してあるのをみたのがきっかけだった。隣松寺(りんしょうじ)自治区が幸町(さいわいちょう)自治区とは独立してある。上野城をおとずれたときに、一向一揆に対抗すべく徳川家康が隣松寺に本陣をおいたってことはしっとっただけど、てらのなまえがほのまま地域のなまえにもなっとって、行政上属す幸町から独立して自治区になっとるだ。
経路は鴛鴨街道(おしかもかいどう)こと県道230号鴛鴨あんじょう線をとおっていくことにした。鴛鴨あんじょう線ってなまえだけはしっとったけど、ほれがわがあんじょうしからほのまま隣松寺につながることをしって、この街道をとおっていった。
たびは、鴛鴨街道の道中に粟寺村(あわでらむら)を発見。江戸時代の三州八郡地理之図にはのっとるのに、いまはどこのまちになるのかわからんかったとこだ。おまけに、もともと沖積平野にあったこの粟寺村が、江戸時代になって碧海台地(へっかいだいち)のうえにあがったっていうことがわかって、びっくり。あがっていったさかのなまえが平兵衛坂(へいべえざか)。また、国江村(くにえむら)も発見。
隣松寺は、ほのりっぱさにいきをのむ。こんなちいさなまちにこんなりっぱなてらがあったとは。隣松寺をみたあとは鴛鴨街道を終点までたどってみる。また、かえりに隣松寺のまちのきたに、鴛鴨城ゆかりのおひめさま、とのさまのはかを発見。歴史をしっかりあじわうことができた。
〔平兵衛坂〕 〔隣松寺〕 [三州八郡地理之図] |
◇ ◇
2021年9月なのか、かようび、あさ8時40分、ふるいのわがやをきたにでて、ファミリーマートあんじょう宮前店にたちより。8時53分、さいしゅっぱつ。上郷街道をきたにいく。
東海道線をこえて、安城東高校西交差点を鈍角に右折。鴛鴨街道にはいる。
碧海台地を東北方向にすすんで、名古屋本線ふみきりまち。にしいきにあっかい電車、ひがしいきにパノラマスーパーがいくのをみおくって、またすすむ。
尾崎町交差点で国道1号線をよこぎり。よこぎってすぐにみちがおおきくみぎにゆみなって、進行方向がひがしむきにかわる。
東海道をひだりななめによこぎり。
柿碕町交差点を直進。柿碕町公民館のとこでみちがおおきくひだりにゆみなって、また進行方向が東北方向にかわる。
開析谷(かいせきこく)におりて、また碧海台地にあがる。
小針町南交差点で西三河南部環状道路をよこぎって、またすぐに小針交差点で平針街道をよこぎる。
ひだりに三菱自動車岡崎工場のへいをみてすすんで、つきあたりT字を左折。
長瀬きたどおりをちょこっときたにすすんで、北野町交差点を右折。また単独の鴛鴨街道になって、きたにすすむ。
北野大訳(きたのおおわけ)バス停で市民病院いきバスのあとについて、すぐに愛知環状鉄道をくぐる。
まえをいく市民病院いきバスはおらんくなって、桝塚東町中郷(ますづかひがしまちながごう)交差点を直進。
平兵衛坂
さて、くだりざかをおりていったひだりがわに平兵衛坂(へいべえざか)のいしぶみを発見。平兵衛坂ってなんだ。わきの説明がきをよんでみる。
粟寺村のやまあがり
1699年7月16日、水害にくるしんどった粟寺村(あわでらむら/桝塚東町の旧名)にすむ28戸は、やまあがり(低地の福地(ふくじ)からたかだいの現在地への移住)を岡崎藩主にねがいでた。ほのときの庄屋が、平兵衛(へいべえ)であった。
さかの名称は、やまあがりのために尽力した平兵衛の遺徳をしのんでつけられただらあ。なお、このさかは碧海台地(へっかいだいち)の段丘崖(だんきゅうがい)にあり、「がけのさか」ともよんどる。
桝塚東町自治区
いや、ここが三州八郡地理之図にのっとるあの粟寺村なのか。ほいで、江戸時代になってやまあがりしたっていう。沖積平野から碧海台地にあがっただ。わがふるいのまちも、縄文時代から弥生時代にかけて沖積平野にすんどったひとたちが古墳時代になってやまあがりしたはずなだけど、ほれをこんな時代をくだって江戸時代になってからやったまちがあるとはおどろきだ。
いしぶみのみぎめんに「ますづか風土記出版記念」、ひだりめんに「県道230号鴛鴨あんじょう線」、うらめんに「2009年3月」ってかいてある。こうやってちゃんと祖先のやまあがりの歴史を印刷物やいしぶみにしてのちのよにつたえるとりくみ、すばらしいな。
平兵衛坂をくだりきったとこで家下川(やしたがわ)にかかる粟寺橋(あわでらばし)をわたる。はしのむこうは、いちめんのたんぼ。粟寺村の先祖はこのはしのむこうからやまあがりしてきただ。
畝部西町城ケ堀(うねべにしまちじょうがぼり)交差点をすぎたすぐひだりに、国江集会所と常夜灯を発見。いまは畝部西町になっとるけど、ここが三州八郡地理之図にのっとる国江村だ。
隣松寺
たんぼんなかをきたにすすんで、幸町隣松寺(さいわいちょうりんしょうじ)交差点にとうちゃく。この交差点でまじわる東西のみちからむこうが隣松寺のまちだ。交差点のきたにいしづくりの常夜灯。交差点からきたにふたまたにわかれるみちはひだりがわのみちにはいって、すぐに左折。にしにちょこっとすすんで、クルマ1台とおるのがやっとっていう間隔のせばいいしづくりの門柱をくぐると、みぎに隣松寺のてらがあらわれる。いや、いかにも戦国のにおいのするてらだ。徳川ゆかりのてらってふんいきもしっかりある。けっきょくてらの正面は東西のみちにめんしたがわだった。てらはみなみむきにあっただ。
さいしょに、あうん仁王像のかまえる山門がある。簡潔なつくりだけどりっぱな山門だ。おくに一直線に中門と本堂がみえる光景もすばらしい。わきの由緒がきをよんでみる。
当稲荷山隣松寺は、人皇53代淳和天皇(じゅんなてんのう)第3皇子東山親王国長公当地に配流(はいる)843年薨去(こうきょ)、隣松院殿一位相国大居士と号し、従兄弟仁明天皇(にんみょうてんのう)、追善のために当山を草建されたとつたう。当初は、天台宗、明徳年間(1390年から1394年まで)明浄土宗に改宗され、現在にいたる。徳川氏との関係はふかかった。
800年代っていうおおむかしに、この地にしまながしにされてなくなった皇子のためにこのてらをたてただ。徳川氏との関係はふかかったとのこと。ほや、一向一揆に対抗すべく徳川家康がここに本陣をおいたぐらいだ。
山門をくぐっていって中門のてまえみぎに、うちむきに稲荷堂。
中門はこれまたりっぱなもんで、2階がかねつきどうになっとる。みぎてまえに「法然上人三河25番霊場|第22番隣松寺」のいしぶみ。
中門をくぐっていって本堂。よせむねかわらぶきの簡潔なつくりだけど、ちからづよさをかんじさせる。
本堂からみぎにつながっておくり。本堂ともどもいちだんたかいとこにあって、まるで要塞のおもむきだ。
本堂にあがりこんで、おまいり。ぴっかぴかだ。
天井にシャンデリヤまである。てまえにひとつ。おくにもひとつ。
ところで、わきでおとこのひとたちがなんかやっとる。おてらで音楽会でもやるのかっておもってきいてみたら、消防の点検中とのこと。
みぎにおくりをのぞいてみる。本堂といいおくりといい、りっぱとしかいいようがない。
本堂にもどって、にしがわのかべに成田環さんのえ。このひとのえは、なんかいか展覧会をみにいったことがあるだけど、このてらとなんか縁があるだ。
◇ ◇
幸町隣松寺交差点にもどって、こんどは交差点からきたにふたまたにわかれるみちをみぎがわのみちにはいっていく。こっちが鴛鴨街道だ。
たんぼんなかをすすんで、東名高速と伊勢湾岸自動車道のまじわる豊田ジャンクションをくぐっていく。
沖積平野から碧海台地にあがったとこが鴛鴨のまち。住宅街のなかをすすんで、明治用水につきあたったとこに中央橋。
中央橋を右折して、明治用水のひとつかみに鴛鴨橋。こないだおしかものたびできたとこだ。
鴛鴨橋からしもをみる。おしかものたびのあとに明治用水の水のかんきょう学習館をたずねて資料をもらってわかっただけど、そもそもこんなまちのなかに明治用水をとおす予定じゃなかったもんを、工事にあたった愛知県庁が強引にここをとおしたらしい。
鴛鴨橋を左折して、鴛鴨街道をきたにすすむ。明治用水のとこでみぎクランクして鴛鴨街道はまんだつづくだ。
まちのきたのはずれまでいって、鴛鴨町新林東(おしかもちょうしんばやしひがし)交差点。ここが鴛鴨街道の終点になる。いまはここでまじわる東西の道路が幹線道路で、クルマがひんぱんにいきかう。おしかものたびのときも、上郷街道からひがしにこの幹線道路にはいってきた。
鴛鴨町新林東交差点のひとつにしに鴛鴨町新林交差点。鴛鴨町新林東交差点てまえのふたまたをひだりにはいるとここにくるだけど、こっちがもともとの鴛鴨街道の終点だったようにおもえる。
鴛鴨街道をひきかえす。隣松寺のまちにはいったとこで、ひだりにおみつのはかを発見。おしかものたびのときに鴛鴨城址をみてきただけど、ほの鴛鴨城ゆかりのおひめさまのはかがこんなとこにあるだ。わきの説明がきに、「おみつが養母としてそだてた福松丸が、のちに清洲城主松平忠吉になった」ってかいてある。
さらにほのちょこっとみなみに榊原清長、長政の墓所を発見。一角にたっとる説明がきに、「榊原清長、長政は徳川四天王榊原康政の祖父とちちにあたる」ってかいてある。いや、ほんとに三河は徳川ゆかりの地だ。
また鴛鴨街道をみなみにすすんで、ふるいにかえる。
(さんこう)
- 隣松寺鴛鴨街道ぞいの榊原清長、長政の墓所 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/09/10
- 隣松寺鴛鴨街道ぞいのおみつのはか - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/09/10
- ふみきりまち - 2021年9月なのか - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/09/10
- 隣松寺にある成田環さんのえ - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/09/10
- おしかものたび - 2021年8月26日 - あきひこゆめてつどう|2021/08/31
- 11時すぎ、ふるいのわがやをしゅっぱつ。あんじょうちょう宮前信号から上郷街道(かみごうかいどう)をきたにすすむ。
- 東名高速をくぐってすぐのひだりT字に「ひだり鴛鴨城址」のたてかんばんがあって、左折。東名高速にし側道をみなみにすすんで、また、みぎT字に「みぎ鴛鴨城址」のたてかんばんがあって、鈍角に右折。
- ひだりしたはたんぼで、みぎ、なんかの事業所のつぎに鴛鴨城址を発見。11時半すぎ。まようことなく、ここまでこれた。
- いしがきにかこまれたうえがしろあとで、まんなかに愛知県がたてたいしぶみがある。
- あがっていて、うらめんをかくにん。岩津城主松平信光のこ親光が1468年にたてたしろだ。わがあんじょう城も岩津城主松平信光が1471年におとしとる。この1400年代后半に、松平が矢作川西岸下流域に進出してきただ。鴛鴨城もあんじょう城も1500年代后半に廃城になっとる。
- 鴛鴨町新林信号のにし、県道みなみの九興飯店までもどって、ひるごはん。おとつい郡界橋からのかえりにこのみせによったとこで、こんなにはよまたこのみせにくることになるとはおもわんかった。たのんだのは、こんどこそのしおラーメンとからあげ。ごちそうさまでした。
- まあちょっときたにすすんで、明治用水にかかる鴛鴨橋にでる。ふつう明治用水ってたんぼんなかをながれとるもんなだけど、ここはまちのまんまんなかを東西にながれとる。ひがしからにしにながれる用水のりょうがわは、びっしり住宅街。ただ、用水はコンクリートいたでふたがしてあって、みなもはみえん。
- 末野原交流館に移動。屋外に末野原史跡めぐり案内図を発見。鴛鴨城址とか安福寺とか、きょうみてきたとこものっとる。ほれと、あるきかたの図解もわかりやすい。おおまたに、せすじをのばしてはらをひきしめてあるかにゃいかんだ。
- たてもんにはいって、全自治区だよりが掲示してあるのを発見。豊栄町1区(ほうえいちょういっく)、永覚新町(えかくしんまち)、永覚、御幸本町(みゆきほんまち)、幸町(さいわいちょう)、大林町(おおばやしちょう)、鴛鴨、隣松寺(りんしょうじ)、渡刈町(とがりちょう)、豊栄2区(ほうえいにく)。末野原には、とおの自治区があるだ。大林は旧高岡町に属しとっただけど、いまはこっちに所属がえになっとる。
- 上野城と上郷のたび - 2021年3月23日 - あきひこゆめてつどう|2021/04/29
- 上野城(上村城)|2021年3月23日、上郷区民会館でもらった資料
- 稲荷山隣松寺(愛知県豊田市幸町) - 鴛鴨松平家、松平忠吉公、細川三代、内藤清長菩提寺|ドクターレザーおかざき「店長」のあいちをめぐる生活って|2018年12月19日参拝
- 「名古屋二十一大師霊場/霊場紹介」の遍路をしている中で、徳川家康四男「松平忠吉」が清州城下に建立したという「大光院」「長久寺」「正覚寺(性高院)」を知り、参拝してく中で、豊田市に松平忠吉の遺骨が分骨され埋葬された墓所があると知りました。
- 実はここ隣松寺への参拝は名古屋二十一大師霊場を遍路している2019-20年から一年近く前になる2018年12月に参拝しています。この時は、松平忠吉公の墓石について意識してなかったというのが実状です。しかし、こうして意識して当時撮影した写真を見直し、隣松寺の由緒を調べていると、当サイトを始めて色々巡ってきた場所との繋がりが実は多かったことを解り、より一層、歴史探訪と称して色々な場所を巡っていくことが楽しくなっていきそうな気がします。
- 成田環回顧展をみてきた - あきひこのいいたいほうだい|2018/06/03