西本郷(にしほんごう)は蓮華寺(れんげじ)をおまいりしたついでに、いさきいりひこのみこ(五十狭城入彦皇子)のはかをおまいりしてきた。ばしょは、蓮華寺のもりの西南。宇頭えきまえの矢作西(やはぎにし)学区案内図にのっとって、あることはわかっとった。境内からみなみがわにつづくひろい墓地の一角にでもあるのかっておもってさがしたけど、ない。
いったん蓮華寺をでて、もりのひがしがわからみなみがわ、にしがわにまわりこんでいくみちをいったとこで、あった。もりの西南になる。ふもとにかんばんがたっとって、「景行天皇皇子、五十狭城入彦皇子墓、宮内庁」ってかいてある。景行天皇の皇子なだ。管理しとるのは宮内庁。
もりの斜面をいしだんでのぼっていく。
あがったとこがひらばになっとって、おくに、石柱列でかこわれた、ひくいいしがきづみのひな壇。そとづけのいしだんで、石柱列中央の鉄とびらのとこにあがれるようになっとる。鉄とびらからなかにあるのは、まんなかにある、ごくかんたんなつくりのいしのとりいと、みぎのほうにある、「景行天皇皇子、五十狭城入彦皇子墓」のいしぶみだけ。
はかいしにあたるもんがどこにもみあたらんだけど、とにかく鉄とびらのてまえでおまいりして、かえる。
◇ ◇
いや、あとでわかったことだけど、じつは、ひな壇のおくのやまが和志山古墳(わしやまこふん)っていう前方后円墳だって、ほれがほのままいさきいりひこのみこのはかだっただ。どおりで、はかいしがみあたらんかったはずだ。
ほれにしても、天皇の皇子っていうえらいひとのはかが、こんな三河のくににあるってのもおどろきだな。ほいから、景行天皇の皇子っていうと、やまとたけるのみこともほなだけど、やまとたけるのみことも東征のとちゅうで、三河のくにの矢作(やはぎ)や榎前(えのきまえ)にたちよっとる。はらちがいの兄弟であるいさきいりひこのみこも三河のくにの西本郷にはかがある。これも興味ぶかいことだ。
〔2020年5月いつか訪問〕
(さんこう)
- 西本郷の蓮華寺 - あきひこゆめてつどう|2020/05/07
- 宇頭神明社 - あきひこゆめてつどう|2020/05/02
- 2018年08月16日:神社とおいちゃん - 岡崎市と神社『和志取神社』~矢作南地区~
- 歴史探偵さかもとさんがゆく!!【和志取神社】|歴史探偵さかもとさんがゆく!!@愛知県岡崎市 - 楽天ブログ|2017.12.31
- 五十狭城入彦皇子 - Wikipedia
- 五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ、生没年不詳)は、『日本書紀』などに伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「五十狭城入彦皇子」、他文献では「五十狭城入彦命」とも表記される。『古事記』に記載はなく、『日本書紀』でも事績に関する記載はない。第12代景行天皇の皇子である。
- 『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、后皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子である。『先代旧事本紀』「天皇本紀」においても景行天皇皇子として五十狭城入彦の名が見え、さらに同書では五十狭城入彦が三河長谷部直(はせべのあたい)の祖であるとする。また『新撰姓氏録』左京皇別御使朝臣条・右京皇別御立史条では、景行天皇皇子の気入彦命(けいりひこのみこと)が応神天皇の命により、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕えたと見える。この「気入彦命」の記載は『日本書紀』『古事記』には無いため、五十狭城入彦と同一視する説がある。
- 墓は、宮内庁により愛知県岡崎市西本郷町和志山にある五十狭城入彦皇子墓に治定されとる。遺跡名は「和志山古墳(わしやまこふん)」。墳丘長58メートル(推定復元60-80メートル)の前方后円墳で、4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される。
- 1895年に宮内省(現・宮内庁)により陵墓伝説地(被葬候補者:気入彦命)に指定されたのち、1896年には墳丘上にあった薬師堂・石塔が撤去され、1926年頃に「矢作陵墓参考地」に名称変更、1941年に五十狭城入彦皇子墓に治定されとる。
- また同古墳の南東の方向には、式内社論社の和志取神社(岡崎市西本郷町御立)が鎮座する。五十狭城入彦を祭神に祀るとともに、五十狭城入彦が逆臣の大王主(大任主)を当地で討ったとする由緒を伝えとる。西本郷の地は、東本郷と併せて『和名抄』に見える三河国碧海郡谷部郷*1(はせべごう)に比定されることから、五十狭城入彦后裔の長谷部氏が同地に来住したとする説もある。
- 和志山古墳 - Wikipedia
- 和志山古墳(わしやまこふん)は、愛知県岡崎市西本郷町にある古墳。形状は前方后円墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「五十狭城入彦皇子墓(いさきいりひこのみこのはか)」として第12代景行天皇皇子の五十狭城入彦皇子の墓に治定されとる。
- 岡崎市街地から西方、矢作川右岸の段丘南端部に築造された古墳である。一帯には古墳数基からなる和志山古墳群が分布するが、本古墳はそのうちの主墳になる。古墳には曹洞宗蓮華寺が隣接し、その建立の際に墳丘に改変が加えられとる。現在は宮内庁の治定墓として同庁の管理下にあるが、これまでに2010年度の宮内庁書陵部による墳丘測量調査などが実施されとる。
- 墳形は前方后円形で、前方部を西西南方に向ける。段築は不明。現在の墳丘長はおよそ58メートルを測るが、築造当初は60-80メートル程度と推定される。墳丘表面では葺石・円筒埴輪列の存在がほぼ認められとるが、墳丘に造出は伴わんかったものと見られる。また墳丘周囲に分布する古墳数基は、本古墳の陪塚と推測される(宮内庁治定の陪冢は無し)。
- この和志山古墳は、出土埴輪より4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される。
- いさきいりひこのみこのはかに参道があった - あきひこゆめてつどう|2020/05/28 〔ついか〕
*1:「谷部」は「長谷部」のまちがいか