矢作川にかかる米津橋のきたづめから東北方向にのびるのが県道岡崎西尾線。矢作川の西岸をすすんで、矢作川にかかる矢作橋のにしづめにいたるみちだ。ところで、米津橋からちょこっといったとこに、みちがみぎに鈍角に分岐する「米津おいわけ」があるだけど、ほの股間にあたるとこにみちしるべを発見した。「米津おいわけ」のなまえはおれがつけた。
◇ ◇
米津橋のきたづめから県道岡崎西尾線をすすんで、まんだ米津のまちなかでみちがみぎに分岐する。ここが米津おいわけだ。
股間のとこにみちしるべがふたつと、ほのおくにお堂。
ひだりのみちしるべに、「左岡崎カワシマ道、右寺領ノデラ道」ってかいてある。
「ひだり岡崎みち」はわかる。県道岡崎西尾線をほのままいきゃあ岡崎にいける。けど、川島(かわしま)はとちゅうでみぎに分岐せにゃいかん。ほれにだいたい、ほんなにおおきなまちじゃないだ。いや、むかしはおおきなまちだって、ほいで川島をとおっていく経路だったのか。ほれと、岡崎のがとおいのにさきにかいてあるってのは、ほいだけおおきなまちだでか。
「みぎ寺領(じりょう)野寺(のでら)みち」も、いまは、このみちをしばらくすすんで、さきにひだりに分岐して野寺にいく、つぎにひだりに分岐して寺領にいくっていうかたちだ。これも、むかしはちがう経路だったのか。ほれと、こっちも、寺領のがとおいのにさきにかいてあるのは、ようわからん。野寺も寺領もおんなじようなおおきさのまちなだ。
うらめんをみてみると、「1932年6月吉◆、江川八重◆」ってかいてある。いや~、88年もまえからここにたっとるのか~。江川八重子さんっていうおんなのひとが、個人でこれをたてたってのにもおどろく。
みぎのみちしるべは、ほとんどよめん。まんなかに「なんとか尊」ってかいてあって、ひだりしたに「なんとかみち」ってかいてある。これがみちしるべだとしたら、みぎしたにも「なんとかみち」ってかいてあったのかもしれん。
おくのお堂にはいってみる。
延命地蔵菩薩がまつってあって、おまいり。いや、延命ってのもなんだかものものしいことばだな。どんなひとがおまいりにくるのか。額に「1925年奉納、橋本屋」ってかいてある。橋本屋ってのは米津の仏壇やさんで、こっから県道岡崎西尾線をまあちょっといったとこにある。あくまでこの額を奉納しただけなのか、このお堂の運営までやっとるのか。
◇ ◇
まんだひとびとがあるいて通行しとる時代、みちしるべをたよりに、ひだりにいったりみぎにいったりしとったようすにおもいをはせて、見学をおえる。
〔2020年5月むいか訪問〕