妙源寺

2020.5.10 (4) 妙源寺 - 本堂の中門 2000-1500

ともだちの投稿でみてしって、碧海郡(へっかいぐん)は桑子(くわこ)っていうとこにある、妙源寺っていうおてらにいってきた。桑子っていう町名はいまはなくて、となりの牧内(まきうち)といっしょになって大和町(だいわちょう)っていうなまえになっとる。おてらのばしょは、東海道線西岡崎駅のきた、矢作南(やはぎみなみ)小学校のにし。

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柳堂まで

2020.5.10 (1) 妙源寺 - 山門 1900-1450

ひがしむきに山門。かわらやね、角ばしら4本あしの簡素なつくり。ひだりのはしらに、「寺子屋講座中止」のはりがみ。しんがたコロナウイルスさわぎのためだ。「次回は5月12日14時、5月26日14時」ともかいてあるけど、中止は4月に予定しとった講座のことで、5月予定の2回はやるってことか。

山門のひだりにおおきないしぶみ。「親鸞聖人説法旧趾柳堂」ってかいてある。柳堂がうりなだ。山門のみぎ、いけがきに半分かくれてちいさな角柱のいしぶみ。「本多光太郎墓所在地」ってかいてある。矢作出身の学者ってことでしっとっただけど、あとでヰキペディアでみたら、桑子尋常小学校卒業ってかいてある。まさにここが出身地なだ。

山門をはいって、参道が2本。直進が柳堂にむかう参道で、みぎ45度が本堂にむかう参道だ。

2020.5.10 (2) 妙源寺 - 柳堂の中門 2000-1500

まずは直進して柳堂の中門。あっかい銅板ぶき、まるばしら6本あし。中門から左右に、かわらやねつきのしろい土塀。ひだりはごくみじかくて、みぎは本堂の中門までつづく。

柳堂の中門をくぐって、ひだりにかねつきどう。みぎにちょうずしゃ。本堂と共用のちょうずしゃだ。中央にいしだたみの参道。左右に、「御階前」ってかいてある灯篭。みぎに「国宝柳堂」ってかいてある、がっちりしたいしぶみ。いまは重要文化財なだけど、むかしは国宝だったみたいだ。

2020.5.10 (3) 妙源寺 - 柳堂 2000-1500

柳堂におまいり。たてもんは、ひわだぶき、向拝(こうはい)つきのよせむね。向拝ってのは、野球帽のつばみたいに、前方にでっぱっとる部分のやねのことだ。たてもんのまわりにきのえんがわ。きの欄干もついとって、擬宝珠(ぎぼし)までついとる。えんがわにあがる中央の階段もきの階段。

柳堂からひだりおくに「親鸞聖人御用水」のいしぶみを発見。さらにほのおくにいど。親鸞聖人がつかったいどにちがいない。

いったん柳堂の中門をでて本堂の中門にむかうとこで、土塀のまえに説明がきがあって、よんでみる。
「くに指定文化財妙源寺柳堂。三河真宗さいしょの道場。1258年創建。開基は、河内のくにあべのからうつって在地領主になった安藤薩摩守信平。3間四方、よせむねづくり、ひわだぶき、向拝1間つき。様式的には15世紀前半室町時代のものであり、浄土真宗寺院の初期の建築様式がようのこっとる。1903年4月15日指定」とのこと。
うん、たしかにしぶい。「浄土真宗寺院の初期の建築様式が」ってかいてあるってことは、さいしょのころはこの柳堂が本堂だったのかな。

ところで、うしろ、山門からつづくいけがきにくっついて、おはかみたいなもんがある。いしがきづみのうえにいしぶみがあるだけど、文字がきえてよめん。ひょっとしてこれが本多光太郎のはかか。

本堂まで

2020.5.10 (4) 妙源寺 - 本堂の中門 2000-1500

さて、本堂の中門をくぐる。いやいや、2階だての、あらけずりな、野性味をかんじるでっかいたてもんだ。カメラにおさまりきらん。かわらぶき、まるばしら12本あし。1階はかべなし。2階は四方いたかべで中央に1か所でいりぐち、まわりを擬宝珠つき欄干のついたえんがわがめぐっとる。いや、けっこうなたかさにある。

2020.5.10 (5) 妙源寺 - 本堂の中門のはしご 1500-2000

みぎうしろに2階にあがっていくはしごだん。秘密基地につながるはしごだんだ。どいだけのぼっていかあかっておもったことか。

本堂の中門からみぎ15度にのびる、こいしのはいったコンクリートの参道をすすむ。山門から本堂の中門までもみぎ45度に参道がのびとるだけど、ほのさきもななめにすすむだ。ひだりに、「連歌の松遺跡趾」のいしぶみ。あんまりほれらしいまつはないだけど、むかってひだりうしろの、わかいほっそいまつのことか。ひだりに柳堂と共用のちょうずしゃ。

2020.5.10 (6) 妙源寺 - 本堂 2000-1500

すすんで、3段のいしだんをあがって、本堂にまっすぐにのびるいしだたみの参道。やっぱりまっすぐがいい。本堂はひらいりで、おおきな向拝のついたかわらぶきやね。

2020.5.10 (8) 妙源寺 - 本堂の向拝 2000-1500

向拝のしたまですすんで、おまいり。きの階段をあがったとこに、きのえんがわ。きの欄干に擬宝珠。本堂の中門や柳堂におなじくだ。向拝をささえる2本のふっといまるばしらと、ほのあいだにわたされた、かざりぼりのふっといはりもりっぱだ。

2020.5.10 (7) 妙源寺 - 境内 2000-1500

ふりかえって、柳堂をふくむ境内を一望。洗練されとるとはいえんかもしれんけど、ちからづよく野性味のある伽藍群(がらんぐん)。ほのあいだに配置されたきぎのみどり。こころがおちつく。

本堂のすぐひだりに、木造かわらぶきのあたらしいきれいな水洗便所を発見。境内をあとにする。

〔2020年5月とおか訪問〕


(さんこう)

  • ほとんど垂直の…|いわせあきひこ|フェースブック|2020年5月10日12:11
    • ほとんど垂直のはしごだん。
      楼門の2階にのぼっていくはしごだんだけど、まるで秘密基地につながるはしごだんだ。どいだけのぼっていかあかっておもったことか。
      #岡崎市大和町
      #矢作南小学校のにし
      #妙源寺
  • 妙源寺|岡崎の観光スポット|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト
    • 三河浄土真宗で最も古いといわれる、高田派の寺院です。太子堂(柳堂)は、1258年に建立され、1314年に再建された国の重要文化財です。松平氏より尊敬されていたことにより、一向一揆の際、家康が難を本寺に避けました。本尊は判官九郎(源義経)の持仏であったということから、武将の縁起を担ぎ、家康の所望により、陣中の守り本尊としながら、最后は東京の芝の増上寺に奉納しております。この縁により家康は、「源」の1字をとり、明眼寺から妙源寺と改称しました。法宝物の展示は8月7、8日に行っております。
    • 愛知県岡崎市大和町沓市場65
    • 東海道線西岡崎駅」下車徒歩5分
  • 妙源寺柳堂(みょうげんじやなぎどう)
    • 妙源寺は、安藤氏が河内国安部野から三河国桑子(くわこ)に移住したとき、聖徳太子の木像を安置するため一堂を建立したことにはじまると伝えられる。
    • 柳堂は、桁行3間、梁間3間、寄棟造で、屋根を桧皮葺とし、前面に1間の向拝を付ける。棟札には、1314年の再建とあり、様式的にも矛盾せん。
    • 堂内に安置される厨子(ずし)は、1間、入母屋造で、屋根は本瓦型の板葺とし、太子像を祀る。
  • 岡崎市の地名 - Wikipedia
    • 大和町(1966年、桑子町・西牧内町)
    • 昭和町(1966年、館出町・小望町・池端町)
  • 本多光太郎 - Wikipedia
    • 本多光太郎(ほんだこうたろう、1870年3月24日 - 1954年2月12日)は、日本の物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者。 「鉄の神様」「鉄鋼の父」などとも呼ばれ鉄鋼の世界的権威者として知られる。
    • 1881年桑子尋常小学校卒業
    • 1954年2月12日、死去。勲一等旭日大綬章を贈られる。墓所岡崎市大和町妙源寺
  • 本多光太郎資料館|東公園|特集|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト
    • 本多光太郎博士は、その生涯を地球物理学・磁気学等の研究に終始。KS磁石鋼や更に強力な新KS鋼を発明し、その功績をたたえ「鋼鉄の父」とうたわれました。1961年7月1日、郷土が生んだ世界的物理学者としての博士の偉業を讃え、岡崎市名誉市民に推挙されました。
    • 「つとめてやむな」
      この一語は博士が母校の子供たちに贈ったことばです。博士は恩師長岡幸太郎の「秀才であることより、努力家であることが大切だ」との教えを実践された人でもあります。
    • この資料館は、博士が勉学に励んだ建物を移築したもので、当時博士が勉強をしとった部屋がそのまま残されています。
    • 館内には博士の研究資料や書記が展示されており、また博士の発明に影響を受けた機械やその功績を解説するロボットが展示されております。
    • 1877年、桑子小学校に入学1881年、随念寺(ずいねんじ)の高等小学校に進学するも学校嫌いで成績も悪かった。后、寺田松次郎先生の私塾に学び、その薫陶を受けて向学の志を立てました。