大久保氏一族発祥の地、上和田にいってきた - 2020年6月22日

2020.6.22 (16) 上和田 - 大久保氏一族発跡地のいしぶみ 1820-1380

あの天下のご意見番、大久保彦左衛門を輩出した大久保氏一族発祥の地が、東海道線岡崎駅にほどちかい上和田(かみわだ)にあるってしって、おおまわりにはなるけど公共交通機関をつかっていってきた。

◇            ◇

2020.6.22 (1) ふるい - しんあんじょういきふつう 1590-1200

こさめふるなか、ふるい8時40分のしんあんじょういきふつうにのって、あんじょう平野をきたにすすむ。電車はきんぎょばち2両のあっかい電車。車内、たちきゃく3わり。

みなみあんじょうでぎんいろ電車の西尾いき急行といきちがい。

8時48分、しんあんじょうは1番のりばにとうちゃく。2番のりばからあっかい電車の吉良吉田いきふつうがすぐにでていくのをかくにん。

2020.6.22 (3) しんあんじょう - 豊橋いき特急 1560-1200

5番のりばに移動。しんあんじょう8時58分の豊橋いき特急パノラマスーパーにのりかえ。西三河平野をひがしにすすむ。

矢作川鉄橋をわたって、碧海郡から額田郡にはいる。

2020.6.22 (4) 豊橋いき特急 - 菅生川をわたる 1310-1200

菅生川をわたって、9時3分、東岡崎にとうちゃく。半分以上がおりる。

2020.6.22 (5) 東岡崎 - 川向いきバス 1600-1200

名鉄バスにのりかえ。東岡崎9時10分の川向(かわむき)いきバスにのる。

2020.6.22 (6) 川向いきバス - 康生通南交差点 1200-900 2020.6.22 (7) 川向いきバス - 康生通南交差点 1200-900

殿橋で菅生川をきたにわたって、康生通南交差点で国道1号線をきたによこぎる。ところで、歩行者が陸橋をわたっとる。横断歩道はなくて、こんなみすぼらしい陸橋しかないだ。まちの代表駅、東岡崎とまちの中心、康生をいききするのに、こんなみすぼらしい陸橋をわたらにゃいかんってかなしい。

2020.6.22 (8) 康生町バス停 - 川向いきバス 1600-1200

9時15分、康生町バス停にとうちゃく。

2020.6.22 (9) 亀屋 - モーニングセット 1200-790

康生北交差点西南かどの亀屋でモーニングセット。パンとゆでたまごのほかについとる、このおにぎりたべたさに、ここによっただ。

2020.6.22 (10) 康生町バス停 - JR岡崎駅いきバス 1600-1200

あさごはんをたべたとこで、6分おくれの、康生町バス停9時47分のJR岡崎駅いきバスにのる。こんどこそ目的地にむかう。

2020.6.22 (11) JR岡崎駅いきバス - 殿橋(桜城橋) 1600-820

殿橋で菅生川をみなみにわたるとこで、ひだり、かわかみに桜城橋(さくらのしろばし)をみる。

いったん東岡崎にはいって、ほっから電車どおりをみなみにすすむ。えきのへんはクルマがこんどって、また、バスはおくれる。

2020.6.22 (13) 岡崎市シビックセンターバス停 - JR岡崎駅いきバス 1600-1200

10時5分の定刻から15分おくれで、岡崎市シビックセンターバス停にとうちゃく。のってきたバスが、つぎの、終点、JR岡崎駅にむかっていくのをみおくって、羽根ガード東交差点からにしに竜南メーンロードをすすむ。クルマのいっぱいいきかうみちだ。

2020.6.22 (14) 東海道線 - 羽根ガード 1600-1200

羽根ガードをくぐるとこで、きたいきに愛知環状鉄道モリコロ電車がいく、東海道線の貨物列車がいく。みなみいきに東海道線豊橋いきふつうがいく。

2020.6.22 (15) 竜南メーンロード - 和田橋 1800-1350

占部川(うらべがわ)にかかる和田橋をわたって、額田郡から碧海郡にもどる。えらいおおまわりしてきたわけだけど、公共交通機関だとこういうふうにしかこれんだ。

和田橋西交差点を直進したとこで、また、あめがふってくる。

2020.6.22 (16) 上和田 - 大久保氏一族発跡地のいしぶみ 1820-1380

すすんで、ひだり、上和田公民館のしきちの一角にみっつならんだいしぶみを発見。まんなかのいしぶみに「大久保氏一族発跡地」ってかいてある。

しきちいりぐちのひがしがわに、岡崎観光きらり百選の説明がきがあって、よんでみる。

大久保氏一族発祥の地

このあたりは、三河譜代の臣として幕末までつづいた大久保一党のやしきがあったところです。上和田には城址があり、大久保忠教(ただたか)以降、代々の居地でした。家康、秀忠、家光の3代にわたる将軍につかえた大久保彦左衛門もここでうまれております。また、大久保一族のはかは、竜泉寺町の長福寺(ちょうふくじ)にあります。

いや~、ここ上和田に大久保氏の支配するおしろがあっただ~。あの有名な大久保彦左衛門も、碧海郡に属するここ上和田のうまれだったとはね。

大久保氏一族発跡地のいしぶみのうらめんをよんでみる。

大久保氏一族発跡地

大久保氏出於宇都宮泰藤泰藤従新田義貞勤王南朝義貞薨后潜至

旧領地上和田邑築城居之既而削髪号蓮常建妙国寺以終焉孫泰道

改氏宇都其子泰昌始仕徳川信光遂為譜代臣経昌忠忠与至忠茂仕

長親及清康屡有戦功清康欲賞之問其所欲曰願賜統下市征清康許

之忠茂会不老曰君賜我市征自今悉蠲之無所復徴於是市民大悦商

賈争帰岡崎殷冨創于此忠茂有五男曰忠俊忠次忠員忠久忠平忠

俊嗣家改氏大久保子孫漸繁相共翼賛徳川氏之創業勲績頗多特如

忠世忠忠勝忠政忠鄰及忠教其顕著者也或封諸矦或属旗下世称

之九十九保如此済多士発跡於此地可謂郷当之名誉也今当

大典建碑永伝之后世云

大正四年乙𫝁十一月

愛知県名勝旧跡調査委員田部井鉚太郎選
衆議院議員早川竜介書

いや~、むづかしくて、おれには解読できん。ただ、こんなとこにも中島の耕地整理をやった早川竜介のなまえがあることにおどろく。中島もここ上和田もおんなじ碧海郡の六ツ美地区なだ。

ひだりのいしぶみをよんでみる。
「土屋長吉碑|土屋長吉ものがたり|土呂針崎野寺僧徒挙一揆|兵来攻和田城|家康来援之|長吉為負重傷容|和田城内家康看其傷泣壮烈握其手謝忠誠|遂薨年二十三」
だいたい、「一向一揆がここ和田城にせめてきたときに、家康をたすけるためにこの土屋長吉がけがをおって、ほのけがをみた家康が感激しただけど、ついに23才でなくなった」っていう意味か。

みぎのいしぶみもよんでみる。

2020.6.22 (20) 上和田 - 水路開削のいしぶみ 1600-1200

1789年から1801年までの寛政年間の水路開削記念のいしぶみで、さいごに六ツ美村長鈴木藤作選書ってかいてある。

2020.6.22 (21) 韓サラン - ムルレンミョンとバイキングのセット 1200-900

いったんひるきゅうけい。ちかくにあった韓サランってみせにはいって、ムルレンミョンとバイキングのセットを注文。ごちそうさまでした。

2020.6.22 (22) 浄珠院 - 本堂 800-600

竜南メーンロードからきたにちょこっとはいって、浄珠院(じょうしゅいん)におまいり。

2020.6.22 (23) 浄珠院 - 境内 1600-1200

このおてらも一向一揆のとき、家康がたについておてらだ。境内には、いちょうの大木がいっぱい。本堂向拝りょうわきたてどいのしたの水盤に葵の御紋がはいっとるのをかくにん。これが家康がたのおてらであることをしめしとるのか。

見学をおえて、上和田の地をあとにする。

〔2020年6月22日訪問〕


(さんこう)

  • 乗車記録 - 2020年6月22日、げつようび、平日
    • ふるい 8:40 → (しんあんじょういきふつう) → 8:48 しんあんじょう
    • しんあんじょう 8:58 → (豊橋いき特急) → 9:03 東岡崎
    • 東岡崎 9:10 → (川向いきバス) → 9:15 康生町バス停
    • 康生町バス停 9:47 → (JR岡崎駅いきバス) → 10:05 岡崎市シビックセンターバス停
  • 大久保氏一族発跡地のいしぶみ - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/07/17
  • 投稿が前后…|いわせあきひこ|フェースブック|2020年6月22日13:59
    • 投稿が前后するけど、きょうは喫茶店のモーニングであさごはん♪ いや、このやきおにぎりがたべたくて、いった(^^)
      岡崎は康生町の亀屋で。
  • きょうのひるは…|いわせあきひこ|フェースブック|2020年6月22日12:14
    • きょうのひるはあっさりムルレンミョン♪とバイキングのなかからえらんだチヂミやキムパプやチャプチェ♪ あとでとってきたトッポギは、やっぱりおれにはからすぎ。でも異国情緒があっていいか(^^) 岡崎は上和田にある韓サランっていうみせで。
  • 満性寺のたび - 2020年6月みっか - あきひこゆめてつどう|2020/06/14
    • 満性寺の山門ひだりがわに、岡崎観光きらり百選の説明がき。「1289年、親鸞聖人のまご弟子了専(りょうせん)が河内のくにからきて、創建。1563年の一向一揆では、松平氏とのゆかりから家康がたにつく」ってかいてある。西三河には親鸞聖人がらみのおてらがおおい。
  • 悠紀のさと見学 - 2020年6月ふつか - あきひこゆめてつどう|2020/06/12
    • 悠紀斎田とは直接の関係はないけど、三河一向一揆の資料もあって、よんでみる。
      2020.6.2 (7) 悠紀のさと - 「三河一向一揆」 1520-1370
  • 妙源寺 - あきひこゆめてつどう|2020/05/12
    • 三河浄土真宗で最も古いといわれる、高田派の寺院です。太子堂(柳堂)は、1258年に建立され、1314年に再建された国の重要文化財です。松平氏より尊敬されていたことにより、一向一揆の際、家康が難を本寺に避けました。本尊は判官九郎(源義経)の持仏であったということから、武将の縁起を担ぎ、家康の所望により、陣中の守り本尊としながら、最后は東京の芝の増上寺に奉納しております。この縁により家康は、「源」の1字をとり、明眼寺から妙源寺と改称しました。法宝物の展示は8月7、8日に行っております。
  • 土井にある本多秀清のはかと早乙女一族のはか - あきひこゆめてつどう|2020/04/25
    • 土井城主本多豊后守秀清公廟所(どいじょうしゅほんだぶんごのかみひできよこうびょうしょ)
      松平氏につかえる本多秀清が土井村をたまわって以来、4代にわたってこの地を支配。3代信重のとき築城。4代広孝がとちゅうで田原城主になって、本多氏の支配がおわる。
      広孝のこで土井城うまれの康秀が1601年、岡崎城主になって以来、3代にわたって本多氏が岡崎城主をつとめる。
    • 早乙女一族のはか
      このはかが、土井利勝の先祖早乙女一族のはかだっていわれとる。
      土井利勝はこの地の早乙女一族のうちに養子にきただけど、主君の徳川家康に命じられて土井姓にあらためる。家康からつづく秀忠、家光にもつかえて、16万石の古河城主や大老職にまで出世する。
    • 土井にかかわって、早乙女氏、土井氏、本多氏の3氏が登場するだけど、整理していうとつぎのようなことか。つまり、早乙女氏はもともとの土豪。ほれが土井氏に改姓して、のちに古河城主や大老職にまで出世する土井利勝を輩出。本多氏は外来の士族で、4代のかんにかぎってこの地を支配した。うん、きっとほういうことだ。
  • 土井の社宮司社(しゃぐうじしゃ) - あきひこゆめてつどう|2020/04/23
    • 三河武士ゆかりの地(土井氏一族発祥の地)
      幕閣(ばっかく)で大老としてかつやくした土井利勝(どいとしかつ)はこの地にすみ、早乙女(さおとめ)姓をなのったったけど、地名をとって土井に改姓した。子孫は下総古河(しもうさこが)、越前大野城主などとしてかつやくした。
  • 上宮寺 - あきひこゆめてつどう|2020/04/17
  • 勝鬘寺(しょうまんじ) - あきひこゆめてつどう|2020/04/15
    • みちに面したとこに「岡崎市指定文化財」のかんばん。「真宗三河三か寺のひとつ。1563年から翌年にかけておきた三河一向一揆のさい、一揆がたの拠点のひとつとなった」とのこと。「蜂屋半之丞(はちやはんのじょう)ら百余騎が境内にたてこもり、ここから小豆坂(あずきざか)や上和田(かみわだ)方面へしばしばうってでてはげしくたたかった」とも。たたかいの歴史があるだ。あと、かながき阿弥陀経も指定文化財になっとる。
  • しろめぐりであんじょう城と桜井城、藤井城、本証寺城をみてきた - 2019年12月はつか - あきひこゆめてつどう|2019/12/20
    • バスで桜井城に移動。県道岡崎西尾線ぞい、城山公園になっとるとこだ。松平本家のあんじょう城時代から岡崎城時代にかけて、ほの支店として6代70年間あったしろだ。1590年、徳川家康の関東移封(かんとういほう)にともなって廃城となる。桜井松平氏も全国を転々。さいごは桜井姓になった摂津尼崎城の城主になっただげな。ほいで、ほの末裔がいまも東京にすんどるっていう。
    • しろあとのすぐにしに桜井松平6代のおはか。いや、いまもほんなおはかがのこっとるとは。
    • バスで藤井城に移動。藤井のまちのまんなかに、しろあとをしめす説明かんばんだけがある。うしろは常夜灯と秋葉社
    • ここも桜井城におなじく松平本家の支店。矢作川をへだてたむこう、東条氏、吉良氏へのそなえとして重要な意味をもっとっただげな。ほれと、矢作川をいきかうふねを管理する意味もあったとのこと。2代め信一(のぶかず)は家康もたよりにしたとのこと。ここも関東移封にともなって、廃城。藤井松平氏茨城県布川(ふかわ)城主や上田城主なんかを転々。家臣には岩瀬姓や神谷姓がおったとのこと。
    • バスで本証寺城に移動。こんかいはしろめぐりのたびってことで、本証寺のしろとしての機能に焦点をあてての見学だ。いまもあるうちぼりをかくにん。敵の防御のためのうちぼりだ。太鼓楼はただ太鼓をならすだけじゃなくて、みはりのためのもんだった。一向一揆の本拠地だった本証寺。真剣に家康とたたかっただ。
    • おくりからきたにぬけて、土塁をかくにん。うちぼりがあって、りょうがわに土塁がある。高低差は7メートルもあっただげな。本気の防御だ。ほのきたにそとぼり。うもれちゃっとるだけど、ちょうど発掘調査の最中。特別にみせてもらう。土塁の位置に変遷があるらしく、境内最北端の土塁のしたにそとぼりがあったじゃないかとのこと。調査結果がたのしみだ。
    • 榊原さんから解説。一向一揆の結果家康によってとりこわされた本証寺だけど、ほの20年あとに、信長秀吉連合に対抗するため家康の命で再度本証寺が建立されたっていう。いや、しらんかった。土塁も、かつての家康からまもる土塁から、家康をまもる土塁にかわったとのこと。いや、うまいこというなあ。
  • 東条城 - あきひこゆめてつどう|2017/07/28
    • 説明がきの看板もあって、よんでみる。吉良荘(きらのしょう)のひがしをおさめた東条吉良氏のおしろだったのか。荘園(しょうえん)って学校でならったよね。新規開田した土地の私的所有がみとめられるようになって、全国にひろまってったってやつ。うん、吉良荘ってのもきいたことがある。ほいで、ほのぜんぶじゃなくて、ひがし半分をおさめたのが東条吉良氏だっただ。時代はくだって戦国のよになって、1561年に家康にほろぼされるか。ちなみに、信長が東海の雄、今川義元桶狭間のたたかいにやぶったのが1560年だで、ほの1年あとのことだ。信長家康連合軍のいきおいや、ひのでのごとし。
    • 家康は、桶狭間合戦以后織田信長とむすび、吉良・今川氏とたたかい、1561年東条城をせめ、14代義昭、降伏して東条吉良家は滅亡する。しかし、天下を掌握した家康は、13代義安のこ義定を旗本にとりたて吉良家を再興した。これが江戸時代の高家吉良家のはじまりである。
    • 1561年9月13日、総攻撃は開始された。戦闘は藤波畷(ふじなみなわ)ではじまった。まもるは吉良の家老、室城主富永伴五郎忠元ひきいる一族郎党、一面の湿田で進撃路はせばく、うちつうたれつの激戦となった。しかし多勢に無勢、伴五郎もうちじにし、一族ここに全滅した。
    • これをみた吉良かたはしろにしりぞいて善戦したけどまもりきれず、城主吉良義昭は降伏した。こうして鎌倉以来連綿とつづいた名門、東条吉良氏の居城は、松平のてにおち、元康(家康)の三河平定は完了した。
  • 上和田からかえる - 2020年6月22日 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/07/18 〔ついか〕