2020年10月15日、ぶらっていったあんじょう市民ギャラリーで「歴史ひろば」をやっとって、ほんなかの作品に『決戦!桶狭間!!熱田神宮から桶狭間まであるいてみた』ってのがあっただ。「歴史のひろば」ってのは、小中学生のなつやすみの自由研究のなかから、歴史を主題にした優秀作品をえらんで展示しとるもんだ。
このこは「桶狭間のたたかい」をなつやすみの自由研究にしただ。ただ、机上で研究しただけじゃない。ただ、桶狭間古戦場にいっただけじゃない。信長の進軍経路をたどるっていうかたちで、歴史を体感しただ。清洲城をでた信長は、とちゅう熱田神宮に戦勝祈願したあと、いくつかのとりでによって桶狭間にとうちゃく。今川軍にきしゅうをかけて、義元のくびをとっとる。このこはあしがるになってこの経路をたどった。
動機、経路、服装
調べてみようと思った動機
歴史の本を読んで織田信長にきょうみをもった。桶狭間の合戦について知りたくなり少数の織田軍が大軍の今川軍になぜ勝てたのか?
調べてみるルート
熱田神宮 → 丹下砦 → 鳴海城 → 善照寺砦 → 中島砦 → 桶狭間古戦場公園 → 桶狭間古戦場
調べる時の服そう
当時の足軽のそうびは20kgぐらいだったけれど無理なので、2kgの水筒を持って歩いてみた。
なんで少数の織田軍が多勢の今川軍にかったのかってのは、だれもがふしぎにおもうとこだ。あしがるになってみたってのがおもしろい。うまにのっていった信長のまねはできんでね。さすがにおもさ20キロの武具はむりで、かわりにおもさ2キロの水筒をもってったっていうのがけなげだ。
経路
熱田神宮
1900年以上続く名社。ものすごく広く、たくさんのお社があった。織田信長は、戦勝祈願のため熱田神宮によった。遅れた兵が追いつき人数が1000人になった。
〔信長塀:桶狭間の合戦で勝利した信長が、お礼として奉納した塀。大きくてがんじょうそうだった〕↓ 【兵士の数1000人】
足軽みたいに歩きながら食事をしてみたら食べにくかった。
↓
丹下砦
信長が鳴海城を攻める時に作った砦。今は畑になっている。↓
鳴海城
敵である今川方の城。信長が攻めた城。けっこう歩いたのに鳴海城から丹下砦が近くに見えてびっくりした。↓
善照寺砦
3つの砦あとの中で一番大きな砦あと。高さも一番高く見晴らしが良かった。この砦に兵が集まり、織田軍の兵の数が3000人になった。↓ 【兵士の数3000人】
中島砦
信長が最后によった砦。今は民家の庭にあり砦あとだと思えなかった。
〔有松(東海道):有松絞りが有名。古い町並がのこっている〕↓ 【織田軍3000人で桶狭間に出げき!】
桶狭間古戦場公園(※ 名古屋)
桶狭間の戦があったと思われる場所の1つ。今は、織田信長と今川義元の銅像がある。桶狭間古戦場(※ 豊明)
桶狭間の戦があったと思われる場所の1つ。◇ ◇
桶狭間の合戦
永禄三年(1560年)6月12日に桶狭間山でおきた合戦。織田信長と今川義元が戦った合戦。今川義元が大軍ひきいて京にのぼろうとし尾張に侵攻。大高城へ向う道中、桶狭間山で休息をとったとき織田信長が三千の兵できしゅうし二万五千の今川軍を討ちやぶった。大将の今川義元は討ちとられた。
熱田神宮で、ちゃんと信長塀をおさえとるとこがさすがだ。本社殿以外にもたくさんのやしろがあるのをみて、由緒ぶかさをかんじとる。とりでやしろによってみて、それぞれどんなばしょなのか、おたがいどんな位置関係にあるのかを体感。さいご、桶狭間古戦場は名古屋と豊明の2か所をおとずれとるのもぬかりがない。
時間経過 | |
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6:30 | 熱田神宮出発(気温28.2度) |
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朝早かったのですずしかった。足軽みたいに歩きながら食事をしてみたら食べにくかった。 | |
8:20 | 丹下砦(気温30.1度、きょり8.5km) |
織田信長が鳴海城を攻める時に、取りかこむようにして作った3つの砦の1つが丹下砦。今は畑になっている。 | |
9:05 | 鳴海城着(気温31.6度、きょり10km) |
敵である今川方の城。織田信長が攻めた城。けっこう歩いたのに、鳴海城から丹下砦が近くに見えてびっくりした。 | |
9:35 | 善照寺砦(気温32.3度、きょり11km) |
3つの砦あとの中で一番りっぱな砦あとだった。高さも一番高く見晴らしが良かった。 | |
9:56 | 中島砦(気温33.6度、きょり12km) |
信長が最后によった砦。ほかの砦とはちがって川の横にあった。民家の庭にあり砦があったと思えなかった。 | |
10:40 | 有松着(気温34.3度、きょり14.2km) |
古い町並みでかっこよく感じた。染め物がきれいだった。 | |
11:31 | 桶狭間古戦場公園(気温34.6度、きょり16.3km)(※ 名古屋) |
桶狭間の戦いがあったと思われる場所の1つ。今は、織田信長と今川義元の銅像がある。 | |
12:00 | 桶狭間古戦場(気温34.2度、きょり17.8km)(※ 豊明) |
桶狭間の戦いがあったと思われる場所の1つ。 |
あさ6時半に熱田神宮をしゅっぱつってすごい。おれにはむりだ。気温も記録しとって、桶狭間古戦場公園では35度ちかくにまでなっとる。ほのあつさのなかで、高低差のある地形を17.8キロあるいた。これも、おれにはむりだ。
わかったこと
なぜ勝てたのか?
織田軍が今川軍にかてたのは、今川軍は織田軍が清洲城にいると思ってゆだんしていた。織田軍は、そのゆだんを利用して清洲城を少数の兵で出陣し、砦で塀を集め桶狭間山で休息をとっている今川軍をきしゅうし、今川軍の大将、義元を討ちとった。
歩いてみてわかったこと
今川の大軍に少数で勝てる方法がきしゅうしかないと思った信長は、すごいと思った。
3つの砦(丹下砦、善照寺砦、中島砦)は、鳴海城をかこむように三角形になっていた。3つの砦のきょりは全ていっしょぐらいだった。
熱田神宮から桶狭間山まですごく遠くて暑く時間もすごくかかった。
昔の足軽は、こんな長いきょりを歩いてすごいと思った。
18kmという長いきょりを歩いてつかれたけれど、最后まであきらめずに歩けたからよかった。
ゴールした時は、すごく楽しかった。自分で体験してみて、今まで以上に歴史が好きになった。
進軍経路をあるいてみて、起伏のある合戦場の地形、両軍の陣形をたしかめてみることで、きしゅうで織田軍が今川軍にかったことがよう理解できただらあな。
歴史賞
安城北部小学校4年生柵木虎醍さん
自分自身を当時の足軽に見立てて、桶狭間の戦いで織田軍が進軍したルートを実際に歩き、織田軍勝利の秘密を探っています。18kmという長い距離を歩く中で様々な発見をしたり、当時の兵の動きを想像したりして、少しずつ謎に迫っていく楽しそうな柵木さんの姿が思い浮かびます。
歴史の本を読んで、柵木さんは織田信長に興味をもちます。特に、戦力差があったにもかかわらず、なぜ織田軍が桶狭間の戦いで勝利することができたのかという疑問を抱き、それを調査するために現地へ出かけました。この研究の良いところは、この現地調査の方法です。拠点となった場所にピンポイントで訪れるのではなく、自らの足で歩き、距離や位置関係を実際に感じることで、当時の戦いの様子をイメージすることができているのです。これは歴史研究にとってはとても大切なことです。そして、自分自身の体験と図書資料で調べた事実を関連付け、自らの疑問を解決することができました。
自分の興味を入り口に、桶狭間の戦いという歴史的事象について実感を伴った調査をすることができました。これからも歴史について調べることの楽しさを、存分に味わってほしいと思います。
このこの作品は歴史賞を受章。授賞理由にあるように、ほんとに「実感をともなった調査」だ。すばらしい。
(さんこう)