あんじょう城の歴史

あんじょう城をあるいたブログ記事をかくにあたって、つぎのとおりあんじょう城の歴史をまとめてみた。

あんじょう城の歴史
  • 1440年、和田氏があんじょう城を築城。
    (あんじょう城築城以前の和田氏の本拠地は、にしどなりのあんじょう古城)
  • 1471年、岩津城主松平信光があんじょう城をおとす。
  • 1524年松平清康松平氏の本拠地を岡崎城にうつす。
    (4代50年あまりのあいだ、あんじょう城が松平氏の拠点になっとった)
  • 1535年、森山くずれにより松平清康がなくなる。
    (これにより松平氏は全三河の大名から西三河の一大名に転落)
  • 1540年から1549年までの10年間に、松平氏織田氏とのあいだで、あんじょう城の所有をめぐって数次にわたる合戦がおこなわれる。
  • 1560年桶狭間のたたかいで織田信長今川義元をうちとる。
  • 1562年ごろ、あんじょう城が廃城となる。
    松平氏が今川氏から独立したあと織田氏清洲同盟をむすんだことで、織田氏にたいする前線基地の意味がなくなったため)

◇            ◇

基本的に戦国期のしろだ。のちに天下をとることになる松平氏が、岡崎に本拠地をうつすまで本拠地にしとったのがあんじょう。岡崎移転后も織田にたいする前線基地としてつづいたあんじょう城だけど、あんじょう合戦で織田にとられとりかえしたあと、松平のうしろだてになっとった今川が桶狭間のたたかいで織田にやぶれ、松平と織田が同盟をむすぶにおよんで、存在意義をうしなったあんじょう城は廃城になる。


(さんこう)

  • あんじょう城をあるく - あきひこゆめてつどう|2021/04/03
    • 1440年に築城、1562年に廃城になったあんじょう城をあるいた。まわりの古戦場や、しろからつながるまちをふくめてあるいて、戦国期あんじょう城の歴史や、律令時代から江戸時代にかけてのあんじょうのまちの歴史をしることができた。とりわけ、律令時代からおおきないちのあるまちだったことにおどろいた。
  • 安城合戦 - Wikipedia
    • 安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・堀平十郎塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。
  • 安祥城 - Wikipedia
    • 舌状台地の先端に位置し周囲を森と深田に囲まれとって、その内側に土塁や堀があり、天守を持たん平山城だった。室町時代中期に築城され、織田氏、今川氏、松平氏との間で激しい戦闘が繰り広げられた。『岡崎領主古記』に安祥森城、『三河国二葉松』に安條古城・云城森、という記載があるが、徳川の同時代史料(『家忠日記』や大久保の『三河物語』)には、別名の森城なる記載はない。『寛政重脩諸家譜』では安城とある。
    • 徳川最古参の三河安祥之七御普代の発祥の地でもある。三河安祥之七御普代とは、酒井左衛門尉・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村、または酒井・大久保・本多・大須賀・榊原・平岩・植村を指す(『柳営秘鑑』)。
    • 信長公記』に「三川の内あん城と云ふ城」と記載される。織田氏保有しとった時代には三河進出の牙城となった。