2021年4月ついたち、村上文庫をたずねて刈谷までいってきた。
〔電車でふるいから刈谷まで〕
〔村上文庫と刈谷図書館をたずねて〕
〔刈谷市から電車でかえる〕
[乗車記録]
◇ ◇
電車でふるいから刈谷まで
さいしょは西尾線。ふるいからしんあんじょうまで、あっかい電車でいく。
しんあんじょうで名古屋本線にのりかえ。知立まできんぎょばちのあっかい電車でいく。
東海道線と接続する刈谷にとうちゃく。のってきた電車をみおくって、かいさつをでる。
刈谷のえきから西南にあるいて、刈谷市中央図書館むかいのトレトゥールっていう洋館のみせでひるごはん。
村上文庫と刈谷図書館をたずねて
村上文庫は刈谷市中央図書館のなか。一室なりひと区画なりが村上文庫になっとって、ほこに本がならんどるのかっておもったら、ほういうわけじゃなくて、蔵書はぜんぶデジタル化されとるだった。申請書に記入のうえ、パソコンでみせてもらう。
村上忠順古事記標注中巻。村上忠順(むらかみただまさ)は、高岡は堤村(つつみむら)新馬場(しまんば)の開業医にして、刈谷藩の藩医もつとめたひとで、さらに国学者でもあった。古事記標注中巻を「ふることふみ|みちしるべ|なかつまき」ってよむのがいいな。村上忠順が邸宅のなかにたてた千巻舎(ちまきのや)にあった蔵書2万5千冊が、いま村上文庫としてここにある。
村上文庫からにしに刈谷図書館にむかう。いまは刈谷市城町図書館になっとる刈谷図書館に、さいしょ千巻舎の蔵書2万5千冊が寄贈された。
三河線をにしにくぐって銀座どおりにはいって、いまは廃業した刈谷浴場のたてもんをみてみる。ここが刈谷市内さいごの銭湯だったっていうだけど、むかしながらの銭湯ってふぜいじゃなくて、ギリシャローマ風の外観にしてある。
さらに銀座どおりをにしにいくとこで、ひだり、中華風の山門にひかれて松秀寺っていうおてらにおまいり。
山門のなかにぶらさがっとる、わっかのついたひぼは、2階につるしてあるかねに連動しとる。こういうのは、ついひっぱっちゃいたくなるもんだ。
銀座どおりからにしにいって、町口門(まちぐちもん)から大手どおりをきたにいく。
十字路のみぎむこうに、刈谷市城町図書館のたてもん。
たてもんのてまえのうえこみのなか、大手どおりに面して文礼館あとのいしぶみ。文礼館は刈谷藩の藩校。藩校だったとこに刈谷図書館ができて、また、いまは刈谷市城町図書館になっとるってわけだ。
おんなじうえこみのなか、となりの亀城小学校(きじょうしょうがっこう)の校庭のほうにむかって、刈谷図書館のいしぶみ。宍戸俊治(ししどしゅんじ)と藤井清七(ふじいせいひち)のふたりが、千巻舎から蔵書2万5千冊をかいとって、書庫、閲覧室といっしょに当時の刈谷町に寄付したことで、刈谷図書館ができた。すてきなものがたりだ。
刈谷市から電車でかえる
かえりは刈谷市から。まぎらわしいけど、東海道線と接続する刈谷とはべつの三河線単独のえきだ。高架のホームにはいってきた、かんつうがたのあっかい電車にのって、複線の線路をいく。
はんたいからあっかい電車がはいってくるのをまって、しゅっぱつ。こっから単線になる。
ちょこっと東海道線と平行してすすんだあと、ひだりにゆみなって東海道線をこえる。東海道線こせんきょうは複線のぶんもまあはいできとるだけど、線路がひかれるのはいつのことか。
地平をすすんで、重原に停車。こっからまた複線になる。
知立がちかづいて、ぐいーんってひだりにまがっていくとこで、むこう名古屋本線をあっかい電車がいくのがみえる。
にしむきにかわって、知立はいちばんみなみの2番のりばにとうちゃく。
のってきた電車が猿投(さなげ)いきふつうにかわるのをかくにん。通常なら4番のりばにとうちゃくしておりかえし碧南いきふつうになるだけど、この電車は異例で、2両増結したうえで反転分岐して豊田市方面猿投いきふつうになるだ。
かいさつをはいりなおして、知立は6番のりばからきんぎょばちのあっかい電車にのる。
しゅっぱつして、すぐみぎにふみきりまちのひとたち。三河線のふみきりをわたって、また、この名古屋本線でふみきりまちをしとるだ。
ふみきりをすぎて、ひだりに建設中の巨大な高架構造物にそって、築堤の高架をあがっていく。知立は2層高架の巨大なえきにうまれかわって、ふみきりまちの光景もなくなる。
地平をすすんで、牛田に停車。
しんあんじょうは6番のりばにとうちゃく。
1、2番のりばに移動。1番のりばに西尾線ゼロキロポストを発見。いまさらながら発見。
2番のりばしゅっぱつのあっかい電車にのって、ふるいにもどる。
(さんこう)
- 乗車記録 - 2021年4月ついたち、もくようび、平日
- いき
- かえり
- いき
- 刈谷市のホームにはいってくる碧南いきふつう - 2021年4月ついたち - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/05/07
- 村上忠順古事記標注中巻 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/05/07
- 刈谷銀座どおりの旧刈谷浴場 - 中日新聞2021年3月28日の記事 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/05/06
- 刈谷図書館のいしぶみ - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021/05/05
- 西尾線ゼロキロポスト発見! - 2021年4月ついたち - あきひこゆめてつどう|2021/04/01
- 中華風の山門を…|いわせあきひこ|フェースブック|2021年4月1日16:09
- 中華風の山門をくぐっていくとこで、わっかのついたひぼがぶらさがっとるのにきづく。なんかしゃんっておもっただけど、うえをみてわかった。2階につるしてあるかねが、2階にあがらずして、このひぼをひっぱることでつけるだ。
いやー、あやうくひっぱっちゃうとこだったわ😅
- 中華風の山門をくぐっていくとこで、わっかのついたひぼがぶらさがっとるのにきづく。なんかしゃんっておもっただけど、うえをみてわかった。2階につるしてあるかねが、2階にあがらずして、このひぼをひっぱることでつけるだ。
- トレトゥールでひるごはん - 2021年4月ついたち - あきひこのいいたいほうだい|2021/04/01
- ずんずんちゃちゃ♪…|いわせあきひこ|フェースブック|2021年4月1日12:27
- 新馬場神明宮と千巻舎のたび - 2021年3月25日 - あきひこゆめてつどう|2021/03/31
- 2021年3月25日、新馬場(しまんば)をたびして、新馬場神明宮と千巻舎(ちまきのや)をみてきた。新馬場は、碧海郡(へっかいぐん)高岡地域のなか、堤地区のなかでもいちばん若林地区よりにある小地区。千巻舎は、刈谷藩の藩医にして国学者でもあった村上忠順(むらかみただまさ)が、じぶんのやしきんなかにつくった書庫。新馬場神明宮と千巻舎はすぐとなりにある。
- またみぎにいちだんひくいとこに、むかしながらのりっぱなおやしき。かわらやねのついた門のなんとふぜいのあること。
- 門からひだりのほう、しきちのかどの部分に、おおきくりっぱな土蔵。かわらぶきいりもやづくりで、かべは、うえのほうがしらかべ、したのほうがくろいいたかべ。まわりを、かわらやね、しらかべ、くろいいたかべっていう、土蔵とおんなじ構成の土塀がめぐらしてある。土蔵と土塀、ほれぼれする景観だ。
△ 千巻舎(ちまきのや) - 村上忠順がくらしとったおやしきも、こんなりっぱなおやしきだったのか。村上忠順がみずからの蔵書3万巻をおさめとったっていう千巻舎(ちまきのや)も、こんなりっぱな土蔵だったのか。
- 電車で若林から知立までもどったとこで、村上忠順翁顕彰会の会長に連絡。さっきみてきたりっぱなおやしきがまさに村上忠順の邸宅で、りっぱな土蔵が千巻舎だった。
- 村上文庫|刈谷市ホームページ
- 村上文庫は土井氏時代(1747-1871)の刈谷藩医、村上忠順(むらかみただまさ)(1812-1884)氏を中心に、村上家で購入、あるいは筆写し、碧海郡堤村(現在の豊田市高岡町)にある村上忠浄(ただきよ)氏の文庫、千巻舎(ちまきのや)で所蔵されとったもので、冊数はおよそ2万5千冊あります。
- 1914年9月に刈谷町の宍戸俊治(ししどしゅんじ/医師/町議会議員)、藤井清七(ふじいせいひち/町議会議員)の両氏により、数千円を投じて購入された村上忠順氏の蔵書群と、新たに建築した図書閲覧室と書庫を合わせて、当時の刈谷町へ寄贈されました。
- 近世文芸史家あるいは書誌学者として著名な刈谷町出身の森銑三(もりせんぞう)氏が、分類、整理したこの文庫を中心に、刈谷町立刈谷図書館として1915年11月に創立され、1917年7月に開館したのが、現在の刈谷市中央図書館のはじまりです。
- なお、村上文庫の資料は1958年、刈谷市指定有形文化財「典籍村上文庫」として指定されております。
- 村上文庫と図書館の創設|刈谷市ホームページ
- 村上文庫と図書館の創設
- 刈谷の図書館の起源について
- 刈谷の図書館の起源は、1914年、刈谷に住む宍戸俊治(ししどしゅんじ)、藤井清七(ふじいせいひち)の両氏が、「村上文庫」2万5千冊余りを村上家より購入し、書庫・閲覧室とともに刈谷市(当時刈谷町)に寄付したことにあります。
- その后、図書館は1915年11月23日に県から認可され、「刈谷町立刈谷図書館」として創立しました。また、その后およそ1年をかけ、膨大な古書を整理分類する一大事業を行ない、1917年7月に図書館は、めでたく開館することができました。当時の図書館は二階建ての書庫に木造の閲覧室と事務室を有した建物で、日曜のみ開館する施設でした。
- 地元の厚志者たちによって創られた小さな図書館は、当時の刈谷に文化の息吹をもたらし、現在の姿へと引き継がれております。
- 村上文庫とは
- 刈谷の図書館の起源について
- 図書館創立に関わった主な人々
- 宍戸俊治(ししどしゅんじ)
- 1866年5月12日、上重原村の宇都宮家に生まれる。のち宍戸家を継ぐ。
- 1882年12月、上京して東京帝国大学予備門に入り、1889年、第一高等中学を出て、1893年11月、東京帝国大学医学部を卒業し、病理学を極めるため同大学院に入る。義父隆一の死にあたり1895年年7月、刈谷に帰り宍戸療院を開業する。1903年10月、愛知県医師会副会長並びに副議長に推され18年間在職する。また三河郷友会理事として后進を助け、町会議員、実業同志会長、碧海郡教育会副会長、亀城研究会長、刈谷士族会副会長など公私にわたって尽力した。また率先して私財を投じて各種公共事業に尽くし、郷党の先駆者・開拓者として評判が高い。
- 藤井清七(ふじいせいひち)氏と共に「村上文庫」2万5千冊余りを村上家より購入し、書庫・閲覧室とともに刈谷市(当時刈谷町)に寄付を行なった。広い知識の持ち主で古書に精通しており、森銑三氏が「村上文庫目録」をまとめるにあたり、氏所蔵の『国書解題』や『漢籍解題』等の参考書類の提供等、目録作成のいろはの教えを指導した人物である。1925年5月19日没。
- 参考:かりや市民だより2006年2月15号、『刈谷図書館の村上文庫』森銑三先生講話要項(刈谷市教育委員会/編,刈谷市教育委員会1964年)
- 藤井清七(ふじいせいひち)
- 高須鉈吉(たかすなたきち)
- 1864年4月23日、刈谷に生まれる。号を碧海と称した。
- 1882年2月、愛知県師範学校を卒業し、刈谷尋常小学校に赴任した。新しい師範学校卒業の訓導(旧制小学校の教諭)として目覚しい活動をし、厚い人望を得る。1901年11月、富山県砺波郡(となみぐん)視学(旧制の地方教育行政官)に栄転した。1904年には山口県豊浦郡視学に転任を命ぜられ、長府に居を移した。1912年2月に当時の亀城尋常高等小学校長の黒田定衛が逝去すると、町民の懇望によってその后任として帰郷し、1923年まで校長を勤める。初代刈谷町立刈谷図書館長。1926年8月没。同1926年9月には町葬が行なわれた。幾千の教え子は遺徳碑を建てた。現在郷土資料館敷地に残されとる。
- 引用:かりや市民だより2002年12月15日号
- 森銑三(もりせんぞう)
- 1895年9月11日、刈谷町の肴町(現広小路6丁目)に生まれる。1916年、数え年22才の頃、刈谷町立図書館に臨時雇いとして寄贈されとった村上忠順(むらかみただまさ)の蔵書およそ2万5千冊を整理し、宍戸に教えを乞いながら「村上文庫目録」をまとめた(この目録は、1978年に刈谷市立刈谷図書館で『村上文庫図書分類目録』として出版されとる。現在絶版)。翌年、刈谷・高崎(群馬県)などの小学校代用教員をしながら児童文学の創作もした。大正14年3月文部省図書館講習所に入学し、翌1917年卒業后、東京帝国大学史料編纂所に入り、図書の整理に従事した。史料編纂所を辞してからは目白の蓬左文庫に入り、1942年退く。1950年から1966年3月まで早稲田大学講師として書誌学を講じた。著作・論文は多く、広い範囲にわたっとる。1985年3月7日没。正覚寺に墓がある。なお、児童文学で有名な森三郎は銑三の弟である。
- 参考:かりや市民だより2003年6月15日号、『刈谷図書館の村上文庫』森銑三先生講話要項(刈谷市教育委員会/編,刈谷市教育委員会1964年)
- 井野直治(いのなおはる)
- 岡本広太郎(おかもとこうたろう)
- 1866年12月8日、刈谷に生まれる。父は滝三郎といい、刈谷町の庄屋を勤め、酒造業を営んどった。広太郎は学問を好み、心が広く、人をまとめるのに優れとったといわれる。
- 1911年9月から1912年7月まで刈谷町議会議員を勤めたあと、1915年6月に刈谷町長に推され1919年9月まで勤め、そのあと再び1921年7月から1923年1月まで町長を勤めた。刈谷中学校・刈谷高等女学校の設立に際し、多くの難題を乗り越えてその目的を達成した。また、豊田紡織株式会社の設立に尽力するなどその功績は大きかった。
- その当時の刈谷町は元刈谷、熊、高津波、小山、重原などがその町域で、それぞれ利害を異にするためにこれらを統括するのは大変であったといわれる。1923年3月29日没。
- 引用:かりや市民だより2005年12月15日号
- 宍戸俊治(ししどしゅんじ)
- 村上文庫と図書館の創設