菅生川(すごうがわ)が占部川(うらべがわ)につながっとったっていう。いまは矢作川(やはぎがわ)にそそぐ菅生川が、じつはむかしは占部川につながっとって、1本のかわだったっていう。河口を探検して河口堰までみてきた菅生川だけど、むかしは矢作川にそそいどらんかっただ。かわをさかのぼって東海道線、愛知環状鉄道をくぐったとこでとぎれとるのをみてきた占部川だけど、むかしは菅生川のながれがここにきとっただ。
一級河川矢作川水系乙川圏域河川整備計画につぎのようにのっとる。乙川は菅生川のこと。
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一級河川矢作川水系乙川圏域河川整備計画
(※ 乙川は菅生川のこと)
2002年7月18日 (2007年6月29日一部変更) 愛知県
- 圏域及び河川の概要
- 圏域の概要 > 歴史
- 徳川家康の生誕地でもある岡崎は、岡崎城の城下町として整備され、三河の中枢として東海道沿線に岡崎宿、藤川宿の2宿が置かれ、宿場町としても栄えた。また、「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」とうたわれとるように、江戸時代には乙川を上って岡崎城下まで船が来るなど、矢作川と乙川の合流地点にある岡崎は水運の要衝であった。
![写真1)1927年ごろの殿橋下流の舟運のようす 430-340](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/iwase_akihiko/20210628/20210628003622.png) △ 写真1)1927年ごろの殿橋下流の舟運のようす(※ 出典=1989年「写真集岡崎いまむかし」)
- 治水に関する記録としては、六名堤(むつなてい)の築堤(1399年)があり、江戸期の民間伝承「百姓伝記」の防水集によれば、14世紀末に当時南流しとった乙川下流部の旧河道を締め切り、岡崎城から六名に続く台地を切って現河道を人工開削したとの記録がある。「岡崎市史」には事業主は当地に縁の深い足利将軍であり、河川敷の水田化や、明大寺(みょうだいじ)までの舟運が目的であったと記述されとる。(図3参照)
![図3)乙川の旧流路 445-550](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/iwase_akihiko/20210710/20210710214116.png) △ 図3)乙川の旧流路(※ 出典=1989年「新編岡崎市史」中世)
- 乙川の人工開削部については洪水時の決壊によって旧河道沿いに氾濫し大被害を出したという記録が多く、1882年には、岡崎市久后崎(くごさき)で破堤し、三島村、久后村はじめ69ケ村で死者43名、浸水家屋2,000余りの被害となった。この災害は「久后切(くごぎれ)」と呼ばれ、これを記した石碑が乙川沿いに建てられとる。
![写真2)久后ぎれ追悼のいしぶみ 300-460](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/iwase_akihiko/20210628/20210628003627.png) △ 写真2)久后ぎれ追悼のいしぶみ
〔リンク〕
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流路をかえたのは1300年代末のこと。岡崎城のとこからみなみにながれとったかわをつけかえて、にしに矢作川にそそぐようにしただ。岡崎城のとこから占部川のいまの最上流部とのとこまでの旧河道はしめきって、岡崎城から六名につづく台地を開削して新河道にきりかえとる。流路きりかえがなかったら、おしろしたまでふねはつかんかった。流路きりかえにあわせて、岡崎城対岸に六名堤(むつなてい)もつくっとる。
ところが、洪水がおこると六名提が決壊して旧河道ぞいにおおきな被害をだすことがおおかったっていう。1882年の久后ぎれじゃあ、69ケ村で死者43名、浸水家屋2,000あまりっていうおおきな被害がでて、いまも追悼のいしぶみがのこっとるっていう。