きょう2021年10月ようか、あんじょうし東部公民館講座「ブラトーブ」で神社めぐりしてきた。範囲は、あんじょう東部小学校区北山崎町(きたやまざきちょう)、高木町(たかぎちょう)、山崎町(やまざきちょう)、上条町(じょうじょうちょう)、大岡町(おおおかちょう)の5町で、天野信治さんの説明をききながら、それぞれのまちにある神社と、ほかにもとちゅうのめずらしいもんをみてきた。
〔北山崎町蔵王神社〕 〔高木町日長神社〕 〔山崎町神明社〕 〔上条町白山媛神社〕 〔どんどん〕 〔山崎町正法寺〕 〔大岡町白山神社〕 |
◇ ◇
北山崎町蔵王神社
しゅっぱつ地点は高木町にあるあんじょうし東部公民館。ほっからひがしにあるいて、北山崎町蔵王神社(ざおうじんじゃ)にとうちゃく。蔵王ってのは、やまぶしでなりたつ鉱山、吉野金峯山(きんぷせん)の山岳信仰、蔵王権現がもともとのもんで、ほっからおてらがおみやさんにかわって蔵王神社になったもんだっていう。明治以前は、おてらもおみやさんもなかよしだっただ。
ここでめずらしいのは社額。なんとせともんでできとる。いまは瀬戸市の区域になる品野(しなの)でつくったもんだ。いや、せともんの社額って、はじめてみるわ。
神社のまえのみちのまんなかに、くすのきの大木。
みおえて、神社からみなみにみちをはいっていったよつつじで、うしろをふりかえる。このみちがおみやさんの参道になっとるだ。
よつつじからみぎをみると、みちのおくに貞印寺。こっちのみちはおてらの参道になっとるだ。
さらにみなみにあるいていくとちゅう、町名の説明。あんじょう東部小学校区5町のうち、上条町をのぞく4町は、さかいがわからんぐらいにくっついとるのに、よっつのまちになまえがわかれとる。おれも、ずーっとむかしっからほれがふしぎだった。じつは、もともとは山崎町ひとつだっただけど、ある時期に高木氏の所領にすべき部分と、大岡氏の所領にすべき部分を分離して、高木町と大岡町をつくった。けっか、山崎町が南北にわかれちゃって、きたのほうを北山崎町にしたとのこと。いや、なっとく。
県道をみなみにわたって、さらにみぎにあんじょう東部小学校をみてみなみにいく。
高木町日長神社
高木町日長神社(ひながじんじゃ)にとうちゃく。高木町のいちばんみなみになる。こっからちょこっとにしに山崎町神明社がみえるだけど、じつはりょうほうとも山崎城のあとだっていう。山崎町神明社のほうが本丸で、ここ高木町日長神社が二の丸にあたるとのこと。ほー。祭神(さいじん)はおおひるめむちのみことで、式内未定社(しきないみていしゃ)の位置づけにあるっていう。日名(ひな)と中島(なかじま)にも日長神社があるだけど、この高木町日長神社は、延喜式(えんぎしき)にある日長神社かどうかわからんって意味で、未定社の位置づけにあるだげな。はんたいに延喜式にのっとる神社にまちがいないばあいは、論社(ろんしゃ)っていうだげな。
山崎町神明社
山崎町神明社(しんめいしゃ)にとうちゃく。社殿のたっとる部分だけじゃなくて、まわりのこまいぬやいしどうろうをふくめたひろい部分がいしがきのうえにあって、いかにもしろあとにできたおみやさんってかんじだ。社殿のおくはさらにたかくなっとるとのこと。また、江戸時代、かんぬしを神光寺(じんこうじ)住職がつとめとったっていう。やっぱり、おみやさんもおてらもなかよしだった。
とりいのよこに土塁。もともとこの神社のまわりをぐるーってまわっとったとのことで、じもと参加者のひとも、むかしはこの土塁にのぼってあそんだもんだっていう。
みおえて、東海道線第2山崎ふみきりをみなみにわたっていく。
上条町白山媛神社
上条町白山媛神社(はくさんひめじんじゃ)にとうちゃく。つきそいのあんじょうし東部公民館員さんから、かよけのスプレーをしてもらって境内にはいる。拝殿にいくまでに、うらからしゅぬりの本殿をみる。めずらしいな。祭神はいざなみのみこと。ここも、もともとは、あとからいく大岡白山神社におなじく、きくりひめのみことが祭神のはずなだけど、おとしとる、またはいざなみのみことに代表させとるとのこと。また、大岡白山神社、上条町白山媛神社、桜井神社のみっつは、同時期に徳川家康がたてさせたもんだっておもわれるとのこと。
たしかに、拝殿のしとみどに、ほんなかんろくもかんじる。
みおえて、きたにひきかえしていく。きたみちよりもにしのみちをとおっていく。
どんどん
クルマがとおれるはばのないトンネルをくぐって、東海道線のきたにいく。このトンネルのなまえが「どんどん」だっていう。じもと参加者のひともたしかにほうやっていっとるっていう。列車がトンネルのうえをとおると、どんどんっていうでこのなまえがついとるだ。
トンネルの正式名称は、背戸田鉄橋(せとだてっきょう)。名古屋鉄道管理局が設計、名古屋軌道工業かぶしき会社が施行。1968年3月30日完成。じもと参加者のひとは、この先代のトンネルをくぐっとったおもいでもあるっていう。トンネルは内壁がいしがきでできとるだけど、先代はまっとちいさないしがきだって、断面もかまぼこがたじゃなかったかなとのこと。
山崎町正法寺
きたにあるいていくとちゅう、山崎町正法寺(しょうぼうじ)の説明。東本郷にもおんなじ正法寺があるだけど、じつはこっちがもともとの正法寺。徳川家康の関東移封(かんとういほう)で東本郷にうつっただけど、江戸時代になってあとちの山崎町にもまた正法寺が復活したじゃないかっておもわれるとのこと。ふたつの正法寺、あらためておとずれてみたいな。
また、きたにすすんで、大岡町交差点までいったとこで、西南かどに「2021年11月いつかからなのかまで正法寺庫裡新築落慶奉告法要」のおしらせかんばん。このときにきてみるか。
大岡町白山神社
大岡町交差点からさらにきたにすすんで、大岡町白山神社(はくさんじんじゃ)。このおみやさんのかかりのふたりが対応してくださる。浦野さんが説明がかり。榊原さんが写真がかり。拝殿唐破風(からはふ)うえのかわらに、あおいのご紋。いりぐちとびらにもあおいのご紋。さすが徳川家康がたてさせた神社だ。
よこからまわって、本殿の説明。ながれづくり銅板ぶきのたてもんだけど、明治期以前はこけらぶきだったとのこと。また、きばながわりとすっきりしたかたちをしとって、これが室町期のとくちょうであるとのこと。側面にみえるゆみなったかたちのこやばりも、これも室町期のとくちょうだっていう。おにがわらにあおいのご紋。
さらに、本殿のうらまでまわっていって、たちならぶ末社の説明。いや、こんなかたちで末社が配置されとるのは、あんまりみたことがない。また、1970年ごろに本殿にしのいどにしろへびがでたことがあって、ほのときは観光バスがおしよせるほどの人気になったとのこと。
さて、こんどは拝殿にはいって、説明をうける。家康のおじいさん、松平清康がたてたもんを、あんじょう合戦のときに織田信秀がもやして、ほれを家康がたてなおしたとのこと。ただし、これは天野信治さんによると、「家康がおじいさんをたてて、ほういうことにしといた」ってのがほんとのとこらしい。浦野さんの説明にもどって、戦国期、岡崎城もあんじょう城もみえるこの大岡白山神社は、軍事上の拠点にもなりえたとのこと。織田軍がここをおとして、どっちをせめるかかんがえて、あんじょう城をせめることにしたとのこと。また、大岡白山神社、あんじょう城、本証寺(ほんしょうじ)が南北の一直線上にならぶのも、家康の意図だっていう。さらにきたに、橋目(はしめ)白山神社、おんたけさん、立山につながるとのこと。
拝殿中央部のゆかがちょこっとたかくなっとるのに、びっくり。つまづいた。たかくなっとる部分のてまえ左右にまばしらもたっとって、ほれを上部でむすぶかたちでうつくしく装飾されたけたもある。いや、こういうつくりもはじめてみるきがする。
あと、かわらのしたの野地板(のじいた)も、やけになんそうにもかさねられとるきがした。
◇ ◇
きたにあんじょうし東部公民館にもどって、解散。天野信治さんに拍手。つぎはブラトーブでおてらめぐりやってほしいな。
(さんこう)
- ブラトーブ - 悠久の三別をあるく - 2020年10月22日 - あきひこゆめてつどう|2020/10/22
- きょう2020年10月22日、東部公民館講座「ブラトーブ - 悠久の三別をあるく」に参加して、「別郷、東別所、西別所」っていう、あんじょうし東部、三別地区の歴史をまなんできた。すぐひがしは岡崎の西本郷、宇頭で、別郷がみなみ、東別所がきたひがし、西別所がきたにしにあるっていう位置関係にある。