駄知線のおもいで - 『多治見・土岐・瑞浪の今昔』から

きょねんの駄知のたびのおり、駄知小売商業協同組合でおんなの事務員さんにみせてもらった『多治見・土岐・瑞浪の今昔』って本のうち、駄知線にかんする部分についてあらためてよみこんでみた。

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表紙

保存版|多治見・土岐・瑞浪の今昔

2022.9.26 (34) 『多治見・土岐・瑞浪の今昔』 1360-1530

多治見市・土岐市瑞浪市
監修:安藤貞男
いつまでもこころにのこる、なつかしいあのまち、あのふうけい・・・
いまよみがえる、うしなわれた郷土の200景!!
激変するふるさとのすがたを、年代をへだてた対比写真でいちもくりょうぜんに!
定価11,550円(本隊11,000円)|郷土出版社

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113ページ、112ページ

駄知駅(だちえき)

2022.9.26 (35) 『多治見・土岐・瑞浪の今昔』 - 駄知駅 2300-1410

1922年、駄知鉄道(のちに東濃鉄道駄知線)が新土岐津-下石間で開業した。1923年には駄知まで延び、翌年1924年には東駄知まで延伸して全線が開通した。写真は駄知駅で通称「西駅」と呼ばれた。駅は同線の中核駅であり、旅客ホームのほか、陶磁器を運ぶための貨物ホーム、敷地内には車両基地、運転基地などもあった。ここから終点の東駄知駅(通称東駅)に向かう電車は、スイッチバック方式でいったん后進して本線まで戻り、そこから再び前進して東駅へと進んだ。 1972年、鉄橋が流失して鉄道は休止し、2年后1974年に廃線となった。廃線后すでに30数年を経とるが、駅舎があった周辺は今も地元で「西駅」と呼称されとる。

1965年代の駄知駅の写真があるけど、廃線のあと駄知バス停としてつかわれとったときとまったくおんなじ配置だ。たてもんこそ木造かわらぶきからスレートぶきのかんたんなもんにかわっとるけど、ほのすぐみぎがわに神社があってまったくおんなじ配置だってことがわかる。駄知駅、東駄知駅をそれぞれにしえき、ひがしえきっていっとったってことは、駄知小売商業協同組合のおんなの事務員さんからきいたとおりだ。にしえきの構内がやたらにひろかったのは、貨物のとりあつかいがあったり車両基地があったりしたでだ。ほいからにしえき構内のにしをはしる線路がひくい位置にあるのがふにおちんかっただけど、にしえきからさらにひがしえきまでいく列車は反転分岐していっとっただ。疑問解消。1972年に鉄橋が流失してほのまま廃線。ざんねんなことだ。

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115ページ、114ページ

下石駅(おろしえき)

2022.9.26 (36) 『多治見・土岐・瑞浪の今昔』 - 下石駅 2310-1370

廃線となった駄知線下石駅の旧駅舎。同駅は陶磁器関連の出荷だけでなく、妻木笠原方面へのバス乗り換え、土岐高校(現・土岐紅陵高校)への通学などで利用する乗降客が多かった。1974年の廃線后も建物はしばらく残り、バスやタクシーの待合所として利用されとった。現在、跡地には東鉄タクシー営業所のほか下石郵便局下石公民館などが建ち並ぶ。今も昔も人と乗り物が交流する場として地元で親しまれとる。

下石駅は駄知線のまんなかにあるえき。駄知のたびのおり土岐市駅からのったバスで下石バス停をとおっただけど、下石郵便局のしきちにはいって停車した。ここにかいてあるとおりいまもひととのりもんが交流するばしょでありつづけとるだ。妻木(つまぎ)や笠原方面へのバスのりかえってかいてあるけど、妻木は下石からみなみにちょこっといったとこにあるまちで、笠原は下石からにしにいったとこにあるまち。下石駅は、L字に土岐市駅から東駄知駅につながる駄知線のほのおれまがるとこにあるえきで、交通の結節点になっとっただ。土岐紅陵高校への通学ってかいてあるけど、これも土岐市駅からのったバスで下石バス停をとおったあと、紅陵高前バス停に停車して男子高校生がひとりおりた。

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139ページ

おもいでの東濃鉄道笠原線と駄知線

2022.9.26 (37) 『多治見・土岐・瑞浪の今昔』 - 笠原線と駄知線 1580-1840

明治時代に入ると全国各地に鉄道が敷かれ、この地方でも1900年、国鉄中央線の名古屋-多治見間が開業し、2年后1902年には中津川まで延伸した。中央線のルートからはずれた土岐市駄知町、多治見市笠原町の危機感は大きく、有力者の中には自ら鉄道建設を志す人たちが現れた。

先行したのは駄知鉄道であった。1911年、駄知町と瑞浪駅と結ぶ計画を端緒にいくつかのルートが検討された。1919年に至ってやっと駄知鉄道株式会社が設立され、建設工事が始まった。建設資金の調達に苦労しながらも、1924年新土岐津-東駄知間の全線10.4キロが開通した。

一方、笠原鉄道は駄知鉄道開業に刺激され1924年に会社設立総会が開かれた。資金難による工事中断などを克服し、1928年に新多治見-笠原間4.6キロが全通した。

両鉄道は1944年、戦時下の政策により合併し東濃鉄道となった。戦后は経済復興を支え地域の発展に多大な貢献をしてきた。しかし、1965年代に入ると道路整備も進み、個人所得の増加によって急速に自動車の時代へと変わっていった。鉄道輸送は減少に転じ廃止の議論もではじめとった。

1972年7月13日、記録的な集中豪雨により駄知線は土岐川に架かる鉄橋が流出し、一夜にして開業以来50年の歴史が閉じられてしまった。 笠原線は営業キロ数が短く当初より旅客輸送には苦戦を強いられとったが、1971年6月12日を最后に旅客輸送を廃止。貨物専用線として生き残りを賭けたが、大口需要企業のトラック輸送への切り替えによってその命運は尽き、1978年10月31日の最終列車をもって半世紀の歴史に幕をおろした。

駄知線・笠原線は地域経済を支えただけでなく、戦中の出征兵士、戦后の買い出し、1955年代の集団就職、また普段の通勤通の足として多くの人々の生活に密着してきた。多くの人たちの思いを乗せて走った鉄道も、記憶の中から少しずつ風化しようとしとる。
(黒田正直)

土岐川鉄橋を渡る電車(1965年代)
多治見駅を出発した列車は、じきに土岐川の鉄橋にさしかかる。鉄橋の后方に見える街並みは国鉄多治見駅方面の中心市街地である。1969年に鉄橋に並んで陶都大橋が架けられ、笠原線の利便性はいっそうなくなってしまった。

多治見駅(1965年代)
多治見駅土岐川を渡った最初の駅で、新多治見駅からの所要時間は2分ほどの場所にあった。笠原線の全駅数はわずか6駅で、駅間の平均距離は1キロに満たず大変短かった。廃線后、線路跡は「陶彩の径」として整備され、自転車・歩行者専用道路として市民に親しまれとる。

中央線の誘致合戦にやぶれた駄知と笠原。それぞれ土岐市駅から駄知線を、多治見駅から笠原線をひいた。戦后くるまの時代になって駄知線は1972年の鉄橋流出で廃線に、笠原線は1971年に旅客輸送を廃止。

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142ページ

2022.9.26 (38) 『多治見・土岐・瑞浪の今昔』 - 駄知線 1620-1880

駄知線電化を記念して(1950年代)
戦前、汽車やガソリン車で運行さ れとった駄知線は、戦争による燃料不足で汽車に変わっとった。しかし、戦后の燃料高騰や設備の維持に費用を要し、電化工事に着手。1950年7月1日から 電車・電気機関車による運行が始まっ た。写真は電化前日に駄知駅構内での記念撮影である。

下石駅で発車を待つ電車(1955~1965年代)
ホームに停車しとる電車は土岐津駅方面へ向かう車両である。単線で運行する駄知線は途中駅ですれ違う必要があった。下石駅で反対方向へ向かう車両を待ち合わせることが多かった。下石駅は土岐高校への最寄り駅でもあり、乗降客は最盛期に3,000人を超えた。沿線で最も乗降客の多い駅であった

旧土岐口駅(1975年代)
1955年代に入ると沿線には土岐商業高校、土岐高(現・土岐紅陵高校)が開校し乗降客は大幅に増加した。土岐口駅は土岐商業高校への乗降駅となり、1960年からの5年間で倍増し、1日2,000人弱の乗降客があった。朝の通学時間帯は両方向からの列車でプラットホームは大変な混雑であった。写真は廃線后も残っとった旧駅舎。

豪雨による鉄橋被害1972年
梅雨末期の豪雨が襲い、土岐川の水位はみるみるうちに上昇していった。上流から流されてきた流木などが駄知線の橋梁に引っかかり、耐えきれず橋梁が流され、線路は川の中に消えていった。多くの市民がこの状況を知ったのは翌朝のテレビニュースであった。たった一つの鉄橋の流出が、駄知線の命運を左右するとは誰も思わんかった。

駄知線の車両(1965年代)
駄知線の車両は1972年運転休止から1974年10月に廃線が認可されるまで、駄知駅構内の車庫に保管されとった。廃線時に在籍した9両は他の私鉄に移り、その中でも四国の琴平電鉄に移った車両は2000年まで現役として活躍した。休止期間は代行バスが運行されたが、駄知線と平行する道路は道幅も狭く屈曲し、バスのすれ違いに困難な所も多かった。

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駄知線の路線図(中日新聞) 620-690


【駄知のたび - あきひこゆめてつどう】
【東濃鉄道駄知線あと1…廃線あと探訪(24)】