どうする家康で、松平元康が上ノ郷城(かみのごうじょう)ってしろをせめおとすばめんがあった。蒲郡(がまごおり)にあるしろで、城主は、桶狭間のたたかいのときに大高城の城代だった鵜殿長照(うどのながてる)。いや、蒲郡にしろがあったとはあんまり認識しとらんかった。ほれに、桶狭間のたたかいがおわったこのときになっても、元康の本拠岡崎からすぐちかくの蒲郡にまんだ敵対勢力がおったってことも意外だった。
鵜殿一族の故郷は熊野新宮。ほっからうみをわたって蒲郡にやってきて土着。上ノ郷城をきずいたほか、分家のしろとして下ノ郷城(しものごうじょう)、不相城(ふそうじょう)、柏原城(かしわばらじょう)をきずいて勢力を拡大していった。鵜殿長照は上ノ郷城の4代城主で、ははは今川義元のいもうと。松平元康が上ノ郷城をせめおとすとき、まあはい分家のしろは今川がたから松平がたにくらがえしとっただけど、今川との縁もふかい鵜殿長照がひとり松平に対抗しとっただ。ほいから蒲郡には鵜殿一族のしろのほかに松平元康の岡崎松平とは別系統の松平のしろもいくつかあっただけど、ほれらも今川がたから松平がたにくらがえしとった。
ほんな状況のなかで鵜殿長照の上ノ郷城がひとり奮戦してやぶれたってわけだ。ほれがどんなとこなのか現地の空気をかんじてみたくていってみることにした。
ちなみに鵜殿長照のいもうとが関水渚(せきみずなぎさ)さんえんじるお田鶴のかた(おたづのかた)で、のちに浜松城の前身である引間城(ひくまじょう)のおんな城主になって、松平元康あらため徳川家康にほろぼされたっていう因縁もある。
◇ ◇
蒲郡駅のかいさつをでて、えきまえ茶太郎でモーニングセットを注文。トーストとコーヒーのあさめし。みせんなか、大将のひくラテンギターのしらべ。まどのそと、バスにのっていくひとやえきにむかっていくひと、えきからでてくるひと。あさのえきのふうけいっていいな。
さて、ひといきついたとこで、きたにのびるえきまえ商店街にはいって上ノ郷城をめざす。にし、きた、ひがしの三方をやまにかこまれた蒲郡にあって、いちばんうみべたにある蒲郡駅からきたにやまのほうにむかっていくかたちだ。
すすんで、銀座どおりとの十字路を右折。
銀座どおりをひがしにちょこっといって本町西交差点を左折。
南北のとおりをきたにいく。
みぎに本町バス停。ひだりに本町バス停。時刻表をみてみると1日に8本しかない。
西浦温泉ひだりまわりバスとすれちがい。まちなかを周回してからにしに西浦温泉までいくバスだ。ちなみに、茶太郎でみたバスは、まちなかを周回してからひがしに丸山住宅ってとこまでいくバスだ。
上本町(うえほんまち)交差点を直進。大坂じゃない。
みぎに蒲郡高校。ここに下ノ郷城があったっていう。上ノ郷城2代長将(ながまさ)のおとうと長存が下ノ郷城初代城主になる。
左右に蒲郡高校前バス停。
ひだりおくにはいっていって長存寺を発見。ここが下ノ郷城鵜殿氏の菩提寺。
長存寺のすぐひがしの生活道路をきたにいって、新幹線をくぐる。
東西の幹線道につきあたったとこで、ひだりに荒子トンネル。このトンネルのわきのかいだんをのぼって、ほのままきたにつながる中央公園のなかのちいさな南北山脈をきたにいく。いや、こんなふうにいけるとはおもっとらんかった。
にしに市街地とほのむこうのやまがようみえる。
みなみに市街地とほのむこうの三河湾。
すすんで、西北方向に遠望峰山(とぼねやま)がみえる。わがふるいのまちはあの遠望峰山をこえたずーっとむこうにある。
ちいさな南北山脈のきたやまにのぼりきるてまえで、また遠望峰山がみえる。
きたやまのてっぺんに秋葉神社と平和塔。
きたやまをうらにおりかけたとこで、西北に上ノ郷城のほうがかいまみえる。
地平におりて、中央公園のきたのはずれで東西のみちにでる。この東西のみちを、落合川にかかる公園橋をわたってにしにいく。こっから一帯はみかんばたけになる。つきあたりT字を左折。ちょこっとみなみにいってみぎT字を右折。
左右にみかんばたけをみて、中央線のないみちをにしにいく。
右折して赤日子神社(あかひこじんじゃ)いちのとりいをくぐって、ごうなかをきたにいく。
すすんで、兼京川(かねきょうがわ)にかかるみやまえばしをわたる。これが上ノ郷城のそとぼりのやくわりをはたしとったっていう兼京川か。
みやまえばしからまっしょうめんに赤日子神社。はしのすぐきたにでっかい常夜灯があって、つぎににのとりいがあって、いちだんあがった境内に本社殿がある。拝殿はかわらぶきつまいりいりもやづくり。わたりでんからつながっておくに銅板ぶきながれづくりのおおいでん。おおいでんのなかに本殿。
ところで拝殿いりぐちの「敬神」の額、東郷平八郎謹書ってびっくりだ。にほんかい海戦でロシアのバルチック艦隊をせんめつした東郷平八郎じゃんか。
赤日子神社をにしにでて兼京川をにしにわたるとこで、きたに上ノ郷城。ここまできてはじめて上ノ郷城をはっきり視界にとらえた。
兼京川のはしのたもとに上ノ郷城平面図。中央に主郭、ひがしに北郭と東郭、西南に土塁、はなれて西南にほりの一部がのこった熊ケ池(くまがいけ)、はなれてひがしを南北に兼京川。この地図ようわかるわ。
みかんばたけのいしがきをみぎにそってにしにいく。
おおてみちに右折するみぎT字をいったん通過。
みかんばたけハウスや農家住宅のなかに熊ケ池があるのをかくにん。
ちょこっともどって、おおてみちをきたにはいる。左右に農家住宅。
ひだりにみかんばたけ。みぎにみかんばたけハウス。
みぎにあらわれたいしがきがいっしゅんとぎれるとこが上ノ郷城のいりぐち。さっきの平面図でいくと、土塁のみなみの位置になる。
いりぐちから東北方向にゆるーくのぼっていく。左右にはたけやみかんばたけをみながらいく。すすんで、ひだりこやまのうえに上郷城あとのいしぶみ。
すすんで、ひだりうえに主郭にのぼっていくつちのかいだんがあるとこで、みぎしたに東郭。これがにのまるかさんのまるにあたるだけど、ずいぶんせばいばしょだ。
つちのかいだんをあがって、主郭。ここはけっこうなひろさがある。おかのてっぺんになるだけど、どういうわけかあったかい。
みなみにみなみに蒲郡の市街地とほのむこうの三河湾をのぞむ。これが鵜殿長照がみとったけしきだ。
上ノ郷城跡を愛する会がたてた説明がきがあって、1562年に上ノ郷城が松平元康によってせめおとされたときのようすがかいてある。
蒲郡市立西部公民館のつくった周辺案内図もあって、いまとおってきたおおてみちには、鵜殿氏がさかえとったころには5から10ちかくのいちがあっていちがみさまもあったとのこと。
ほいから蒲郡市立西部公民館の岩瀬さんと権田さんのつくった上ノ郷城推定復元模型の写真もある。ほー、こんなかんじだったのかー。天守閣みたいなりっぱなもんはないけど、きのさくにかこわれた楕円形の主郭のなかにびっしりやかたがたちならんどる。
さらに、上ノ郷城跡保存記念事業寄付者いちらんのかんばんに、特別寄付者として1名鵜殿勝昭のなまえがあるのを発見。鵜殿長照のまつえいにちがいない。鵜殿家はいまもつづいとるだ。
西北に松平元康が陣をかまえた名取山をみる。あっこからここにせめこんできただ。
こんどは東郭からおくにいってみる。北郭があらわれるのかっておもったら、おかをおりちゃってみかんばたけにでる。北郭は斜面にうもれちゃっとったのか、あるいはこのみかんばたけのしたになっとるのか。
おかのきたがわをまあちょっとにしにまわりこんで、主郭をみあげる。松平元康配下の忍者がここをはいあがっていったのか。
ごうなかをてきとうに西北方向にあるいていって正行院(しょうぎょういん)を発見。ここが上ノ郷城鵜殿氏の菩提寺である長応寺があったとこだ。鵜殿長照の無念をおもって蒲郡駅にもどる。
〔2023年2月はつか、げつようび、平日〕
【上ノ郷城(かみのごうじょう)あとってなに?】
【上ノ郷城平面図】
【上ノ郷城跡を愛する会がたてた説明がき】
【上ノ郷城周辺案内図】
【上ノ郷城推定復元模型】