東条城

まあはいゴールデンヰークのときのはなしだ。ことし2017年5月ふつか、吉良にある東条城(とうじょうじょう)っていうおしろをみてきた。いや、天守閣とかがあるわけじゃなくて、ただしくはおしろのあとをみてきたっていうべきか。

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つまとふたり、西尾八面山のふもとにみつけた好吃(ハオチー)っていうみせでひるをとって、クルマで現地にむかう。むか~しにこどもづれでいったことがあって2回めになるだけど、みちはうろおぼえ。吉良の上横須賀のほうだったよな~ぐらいだ。グーグル地図をみながら、てきとうに東南方向にすすむ。だいぶおもいだしてきた。ひがしにのびる街道をすすんだとこで、駮馬(まだらめ)ってとこになった。ここだ。このあざのなまえ、おぼえとるわ。街道がきりとおしになっとるとこのみぎがわ、みなみがわのやまのうえにおしろがあるだ。わかりにくい駐車場にクルマをとめて、やまをあがる。主郭のほかに副郭がみっつあるだけど、さいしょに、いちばんうえにある主郭までいく。復元された城門とものみやぐらがむかしをしのばせる。

2017.5.2 東条城 (1) 主郭からみる城門とものみやぐら 1880-1050、、
(1) 主郭からみる城門とものみやぐら

説明がきの看板もあって、よんでみる。吉良荘(きらのしょう)のひがしをおさめた東条吉良氏のおしろだったのか。荘園(しょうえん)って学校でならったよね。新規開田した土地の私的所有がみとめられるようになって、全国にひろまってったってやつ。うん、吉良荘ってのもきいたことがある。ほいで、ほのぜんぶじゃなくて、ひがし半分をおさめたのが東条吉良氏だっただ。時代はくだって戦国のよになって、1561年に家康にほろぼされるか。ちなみに、信長が東海の雄、今川義元桶狭間のたたかいにやぶったのが1560年だで、ほの1年あとのことだ。信長家康連合軍のいきおいや、ひのでのごとし。

古城公園(東条城あと)
2017.5.2 東条城 (2) 「古城公園(東条城あと)」 1900-1070
東条城は中世に吉良荘(きらのしょう)のひがしがわをおさめた東条吉良氏の居城です。現在、しろは独立丘陵に位置するようにみえますけど、本来は茶臼山(291メートル)からのびるおねの先端部にあたり、現在の県道はおねのほりきり部分をとおっております。しろのひがしからみなみのぬまたは藤波畷(ふじなみなわて)ってよばれ、矢崎川と支流の炭焼川がしぜんのほりのやくわりをはたしておりました。
1561年に東条城は松平元康(家康)軍の攻略をうけ落城し、東条城には城代松井忠次(ただつぐ)(のちの松平康親(やすちか))が入城しました。(てんぽう)となり、東条城は廃城となりました。
主郭を中心に曲輪(くるわ)をめぐらす中世のしろのとくちょうをよくとどめております。
西尾市教育委員会
(2) 「古城公園(東条城あと)」

2017.5.2 東条城 (3) 城門 1050-1880
(3) 城門

城門をくぐって、副郭2におりる。また、「東条城の歴史」っていう説明がきの看板があって、よんでみる。いや、なかなかはなしがこみいっとってようわからん。おおざっぱに、「東条吉良氏の祖は足利氏にさかのぼり、東条城が足利一門の三河遠江支配の拠点になっとった。だけど、1561年に家康にほろぼされる。ほのあと、家康ゆかりの松平家のもんが東条城にはいるけど、1590年に家康が関東移封になったあと、廃城となる」ってかんじか。

東条城の歴史
2017.5.2 東条城 (4) 「東条城の歴史」 1880-1060
鎌倉時代の1222年ごろ、足利義氏三河守護・吉良荘地頭となった。ほの三男義継は吉良荘東条をゆずられ、東条吉良氏の祖となった。
以后、14代義昭にいたってほろぶまで、吉良氏は足利一門としてさかえ、東条の地は300余年、足利・吉良氏の三河遠江支配の重要拠点であった。
南北朝時代、4代貞家奥州管領として東国におもむいた。ほの后裔が関東吉良氏だ。
室町時代応仁の乱(1467年~1477年)では、10代義藤は山名宗全にみかたして、細川かたの西条(西尾)吉良と骨肉あいあらそう悲劇をあじわった。
12代持広は、松平清康のいもうとをめとり、清康が尾張守山に不慮の死をとげるや、清康の遺児仙千代(家康のちち・広忠)のおやがわりとなり松平一門の危機をすくった。
家康は、桶狭間合戦以后織田信長とむすび、吉良・今川氏とたたかい、1561年東条城をせめ、14代義昭、降伏して東条吉良家は滅亡する。しかし、天下を掌握した家康は、13代義安のこ義定を旗本にとりたて吉良家を再興した。これが江戸時代の高家吉良家のはじまりである。
落城后の東条城には、青野松平家の家忠がはいって東条松平家が成立した。家忠のおじ松井忠次はこれを補佐して武功をあげ、遠江牧野城代・駿河三枚橋城主となり、松平姓をあたえられて周防守康親となのった。1581年家忠が男子なく没すると、家康の四男忠吉を后嗣にむかえた。康親は1583年に没したけど、子孫はおおく幕府の要職についた。忠吉は関ヶ原合戦尾張清州城主となるけど1607年に没し、后嗣なく東条松平家は断絶した。
また、ここには高名な文人・武人がおおくおとずれとる。室町時代に家人冷泉為和がたちより、連歌師宗長はここで連歌の会をもよおした。武人では、信長・家康もたかがりにことよせておとずれとる。
東条城は1590年(天正18年)に家康が関東にうつったあと廃城となった。ほれゆえ、現在の遺構は天正年間のすがたをつたえるものだ。
(4) 「東条城の歴史」

副郭2から主郭をみあげてみる。

2017.5.2 東条城 (5) 副郭からみあげるものみやぐらと城門 1920-1080
(5) 副郭からみあげるものみやぐらと城門

副郭2にさらに、「東条城の落日」っていう説明がきの看板があって、よんでみる。奮戦むなしく東条吉良氏は全滅するってわけだけど、この1561年の東条城陥落をもって、家康の三河平定が完了したわけか。

東条城の落日
2017.5.2 東条城 (6) 「東条城の落日」 1920-1080
ほれは1561年9月13日だった。このひは、この東条城の攻防に戦死した数百の将兵の命日でもある。
三河に着々と勢力をたくわえた松平元康(徳川家康)は1561年9月、小牧砦に出陣し、みずから指揮して東条城攻略の態勢をかためた。小牧を本陣に、津平、友国、平原にもとりでをきずいた。もはや今川からの援軍も期待できず、いきおいにのる松平勢のまえに東条城の命運は絶望的だった。
1561年9月13日、総攻撃は開始された。戦闘は藤波畷(ふじなみなわ)ではじまった。まもるは吉良の家老、室城主富永伴五郎忠元ひきいる一族郎党、一面の湿田で進撃路はせばく、うちつうたれつの激戦となった。しかし多勢に無勢、伴五郎もうちじにし、一族ここに全滅した。
これをみた吉良かたはしろにしりぞいて善戦したけどまもりきれず、城主吉良義昭は降伏した。こうして鎌倉以来連綿とつづいた名門、東条吉良氏の居城は、松平のてにおち、元康(家康)の三河平定は完了した。
(6) 「東条城の落日」

このひはこいで東条城見物をおえて、やまをおりてうちにかえってったわけだけど、さいしょの看板にかいてあった「吉良荘のぜんぶじゃなくて、ひがし半分をおさめたのが東条吉良氏だった」ってことに関してあとでしらべるうちに、にし半分をおさめたのが「西条城」だったってことがわかった。吉良荘ってのは、だいたい、西尾市をふくむ幡豆郡の区域にかさなるわけだけど、矢作古川(やはぎふるかわ)をさかいに、ひがしは東条城、にしは西条城っていうふたつの勢力にわかれとっただ。ほいで、西条城はのちの西尾城につながるって。うん、べんきょうになった。ちなみに、きのう斎藤吾朗展をみてきただけど、作品の解説のなかにも同様の記述があったよ。さすが、三河の風土をえがきつづける画伯だけに、歴史についてもようしってみえる。

荘園の領域と主要集落(国営矢作川農業水利事業) 545-745
△ 荘園の領域と主要集落(国営矢作川農業水利事業)

東条城と西条城(あきひこ) 940-620
△ 東条城と西条城(あきひこ)

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「古城公園(東条城あと)」 - 古城公園案内図 330-340 「東条城の歴史」 - 東条城復元図(西方から鳥瞰図風に) 300-320
(ひだり=古城公園案内図)(みぎ=東条城復元図)

「東条城の落日」 - 合戦図 1610-275
(合戦図)


(さんこう)

  • 刈谷市美術館で開催中の斎藤吾朗展における説明がきより|2017年7月27日かくにん
    • 吉良のあかうまと東条城
      良質な雲母(きらら)がとれることからいまの西尾市は吉良荘(きらのしょう)ってよばれ、足利尊氏の5代まえの足利義氏三河守護として、1200年代に東条城をつくり、子孫の吉良上野介義央公は領内を農耕用のあかうまにのって、黄金堤などの治水工事に尽力したで、名君ってしたわれとる。
    • 東条城
      1221年承久の乱のあと、足利義氏三河国の守護になり、吉良荘の地頭職を兼務しました。義氏は吉良荘をつらぬく当時の矢作川をさかいに、にしがわの現在の西尾城の位置に西条城を、ひがしがわに東条城をかまえ、長男長氏を西条、三男義継を東条におき、吉良荘をわけておさめました。以后、東条城は義継を祖とする前期東条吉良氏と、吉良尊義を祖とする后期東条吉良氏の居城となりました。1992年に城門、ものみやぐらなどが復元され、現在は古城公園として整備されております。
  • からあげがもりもり♪|いわせあきひこ|フェースブック|2017年5月2日13:18
    • からあげがもりもり♪ きょうはいきあたりばったりではいった西尾の好吃(ハオチー)っていう四川料理のみせでおひる♪
      2017.5.2 好吃(ハオチー) - からあげ定食
    • このあとは東条城によってかえりましたよ(^^)
    • 東条城は横須賀のほうです。けっきょく松平にほろぼされますけど、今川がたのさいごととりでだったみたいです。
    • いま、「西尾市今川町」でグーグル地図を検索して発見しました! なんと、今川氏発祥の地がここだったみたいです。駿河の大大名今川氏もここが父祖の地だったってことですね。いや~、おどろきました。
  • 西尾城 - Wikipedia
    • 城名について
      西尾城の別称には西条城がある。これは、1221年に、足利義氏が、三河守護に任命されて、幡豆郡吉良庄西条に、西条城を築き、その后、1561年に徳川家康の家臣の酒井正親が西条を西尾に改名したという言伝えによるものである。