クロで長浜までいった。長浜では旧長浜駅舎とこれに併設の長浜鉄道文化館、北陸線電化記念館、さらにこれらのむかいにある慶雲館をみてきた。
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しらさぎ3号グリーン車クロ681-3を長浜でおり、橋上のかいさつをでる。えきとうちゃくまえに電車のなかからみえとった旧長浜駅舎は、線路のにしがわをちょこっとみなみにいったとこにある。たてもんの正面であるみなみがわにまわりこむ。明治の洋館だ。想像しとったよりこぶりなたてもんだけど、維新政府のいきごみがかんじられる。
〔鉄道開通以前の交通〕〔新橋横浜間の鉄道開業にあたっての勅語〕〔最初の鉄道計画と長浜駅の開業〕〔のびる長浜周辺の鉄道〕〔1890年ごろの東海道線駅舎の写真〕〔かがやく新快速〕〔ED70がた1号〕〔旧長浜駅舎と姫路いき新快速〕〔旧長浜駅舎内部〕〔慶雲館〕 |
鉄道開通以前の交通
入館料をはらって、旧長浜駅舎にはいる。2階は事務室で1階がえきになる。見学可能な1階をひととおりみて、おくの長浜鉄道文化館にはいる。まずは鉄道開通以前の交通。琵琶湖にはいくつかの航路があり水運がさかんだったことがわかる。長浜も湖北の水運拠点のひとつで、陸運と水運の結節点になっとる。
展示物に「江戸時代の長浜大津間はやぶねの告知」なんてのもある。くれむつどきに長浜を出船して、翌日あけむつどきに大津につくとある。う~ん、夜行列車ならぬ夜行船だ。このことによっても江戸時代の琵琶湖水運のにぎわいが察せれる。
新橋横浜間の鉄道開業にあたっての勅語
さて、鉄道の開業だ。1872年、新橋横浜間のわがくにはじめての鉄道の開業によせた明治天皇の勅語がある。なかなかむずかしいとこがおおくてわからんだけど、「朕(ちん)わがくにの富盛を期し百官万民のためにこれを祝す」ってとこはわかる。「わがくにがとみさかえることを期待し、役人や国民のためにこれをいわう」っていう意味だね。天皇陛下のおよろこびのようすがわかる。また、「朕、さらにこの業を拡張し、この線をして全国に蔓布せしめんことを庶幾す」は、「さらに鉄道を拡張し、全国にひろげることをこいねがう」っていう意味になる。鉄道にかける意気ごみがわかるね。
最初の鉄道計画と長浜駅の開業
ほいで、鉄道がどうやって全国にひろがっていったか。「最初の鉄道計画」っていう展示にこうある。「まずさいしょにえらんだ路線は、1.東京-横浜、2.神戸-大阪-京都、3.京都-敦賀のみっつで、第3の経路で水運と陸運の接続点として、長浜が敦賀にいく路線の起点としてえらばれた」って。ふぅむ、長浜をとおる路線はにほんさいしょのみっつの路線のうちのひとつだっただ。
で、長浜駅の開業は1882年3月とおか。1872年の新橋-横浜間の開業におくれること10年。柳ケ瀬トンネル区間をのぞく長浜-敦賀間といっしょに開業しとる。
むかしの写真で、駅舎とふなつきばがすぐとなりにあることがわかるよね。1960年ごろのさつえいで、とっくに駅舎は移転しちゃっとるだけど、まんだ旧駅舎もふなつきばもむかしの状態をのこしとっただ。
△ 「最初の鉄道計画」旧長浜駅舎(1960年ごろ和田清太郎さんさつえい)
つぎに、長浜に鉄道が開通したころの全国の状況が展示されとった。さっきの東京横浜、京阪神、長浜敦賀のみっつのほかは、北海道の官営幌内鉄道と東北の釜石鉄道のふたつだけ。いや、長浜のいかに鉄道先進地だったことか。
1887年ごろの長浜駅の模型も展示してある。
のびる長浜周辺の鉄道
つぎは長浜周辺の鉄道がどうやってのびていったか。1882年3月は長浜-敦賀間の開業時で、柳ケ瀬トンネル区間はまんだつながっとらん。
1883年5月は、長浜からひがしに線路がのびて、関ケ原までいっとる。いまの東海道線にあたるだけど、米原じゃなくて長浜が起点になっとっただね。
1884年4月は柳ケ瀬トンネル区間が開通し、ほの翌月の1884年5月は関ケ原-大垣間が開通しとる。
5年おいて1889年7月は、ほれまで水上航路だけだった大津-長浜間に線路がひかれとる。いまの形態だね。ほれと、関ケ原方面の線路の起点が長浜から米原にかわっとるだけど、これはよくなかったじゃないかなっておれはおもうよ。長浜は太閤秀吉以来のまちだけど、米原はまちでもなんでもない。
また、11年おいて1900年2月は、草津から分岐する関西鉄道や彦根から分岐する近江鉄道ができとったり、さらに米原-関ケ原間の経路の一部が変更になったりする。う~ん、鉄道がどんどんひろがっていくね。
1890年ごろの東海道線駅舎の写真
ちょっと休憩で、1889年東海道線全線開通当時の駅舎の写真をながめる。うん、わがあんじょうえきはない。陳情活動がみのって、岡崎-刈谷間にあんじょうえきができたのは1991年のこと。この展示は、旧長浜駅のおくに長浜鉄道文化館とならんでたっとる北陸線電化記念館のなかにあったもの。
かがやく新快速
長浜鉄道文化館の展示にもどって、「かがやく新快速」! いや、じつに新快速によってJR西日本区間の東海道線はいきかえり、また、新快速の長浜延伸によって長浜のまちもいきかえっただ。
初代新快速の登場は1970年。まんだこのころの運行は本格的じゃなかったっておもう。2代めが1972年から1980年。1975年から5年間の学生時代を彦根ですごしたわがみとして、これはかなり本格的な運行だったっていう実感がある。なんせ京都-大阪間に停車駅なしって、特急といっしょじゃんっておもったよ。バドミントンのしあいで大阪までいくときとか、重宝したもんだ。3代めが117系で1980年登場。
4代めが1989年登場の221系。JR西日本となってから投入された新車で、5代めである1995年の223系、6代めである2010年の225系と、いまにつづく。破壊的な速度で関西のおもだった都市をつなぐ。
ところでながらく長浜は新快速のかやのそとだった。米原からわずかのきょりであるにもかかわらず、東海道線区間じゃないってことでかやのそとにおかれとった。このままじゃまちはさびれるいっぽうだ!っていう危機感をもった長浜のひとたちの、新快速延伸要望がみのったのが1991年9月じゅうよっかのこと。長浜の属する北陸線は交流電化区間だって、これを東海道線とおんなじ直流電化区間に変更してまで実現した。こうして長浜は高速交通網のなかにくみいれられ、黒壁スクエアの成功ともあいまって、まちはおおいににぎわうことになる。わが学生時代、彦根のまちがおおいににぎわっとるのと対照的に、長浜のまちはひとっこひとりあるいてないような状態だっただよ。新快速さまさまだ。
ED70がた1号
北陸線電化記念館で電気機関車をみる。ED70がたっていう形式名で、長浜にとってはのちにあだとなる交流電化だけど、1957年10月ついたちに実施された米原-敦賀間の交流電化にあわせて製造された、にほんはつの量産がた交流用電気機関車だとのこと。いや~、電気機関車の運転室なんてはじめてはいってみたけど、電車の運転室よりそうとうひろくて、人間がはたらいとるばしょだな~っていうかんじのつよくする空間だった。
△ ED70がた1号(うえひだり=運転席)(うえみぎ=機関室)(した=外観)
旧長浜駅舎と姫路いき新快速
いったん施設のそとにでて、いっぷく。旧長浜駅舎のとなりのふみきりを、ちょうど姫路いき新快速がいくわ。
△ 20160706_112947 旧長浜駅舎と姫路いき新快速
旧長浜駅舎内部
さいごにまあいっかい旧長浜駅舎を見学。いりぐちをはいったとこのひろまがコンコースで、ほのおくがかいさつぐち。
1等、2等にのるひとには、専用のまちあいしつがある。コンコースのひだりがわだ。
琵琶湖汽船の広告ってのもかかげられとる。長浜駅開業まもないころのもので、「公衆の便益に応ぜんがため合資協力して太湖汽船会社を創立して、安全堅牢な鉄船数艘の新造に着手するとともに、在来の汽船会社所有の船舶もことごとく購入して『江湖の望』を満足せしめんと欲す」ってかいてある。『江湖の望』ってのはようわからんけど、「資本をあつめてしっかりした会社をつくって、鉄製のふねの新造に着手し、在来のふねも購入して、みなさんの期待にこたえていきますよ」っていうような意味かな。きおいがつたわってくる。
1、2等まちあいしつには洋装の紳士、和装の婦人、はおりはかまのこどもの3人がおった。
おくの駅長室には威厳のある駅長さんがたっとった。
休憩室っていうへやもある。まどのうえのランプがいいふんいきだ。
慶雲館
鉄道関係施設の見学をおえ、むかいの慶雲館っていうたてものにはいる。1887年の明治天皇の長浜ご訪問をおむかえするために、じもとの豪商、浅見又蔵っていうひとが私財を投じて建設したもんだっていう。わがあんじょうでも天皇陛下をおむかえするために、当時の町長だった岡田菊次郎が自宅を大増築してこれにあたっただけど、天皇陛下ご訪問ってのはほいだけ栄誉なことだっただ。
門のわきの説明がきをよんで、しきちにはいる。
△ 慶雲館(うえひだり=門)(うえみぎ=中門)(した=たてものいりぐち)
天皇陛下をおむかえするまは2階。階段をあがってはっといきをのむ。なんちゅううつくしさだ。
玉座がおいてあるのは、おくの1段たかいとこ。やんごとなきかたは、ベランダにでたりしてものほしげににわをながめたりはせんもんだ。
△ 慶雲館(うえひだり=玉座の間)(うえみぎ=説明がき)(した=にわ)
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見学したものすべてにおおいに満足し、ひるをとるためににぎわうまちなかにむかった。
(さんこう)
- クロでいく長浜 - あきひこゆめてつどう|2016/07/06
- 長浜のまちなか
- 旧長浜駅舎での記念さつえい