電車をのりついで岐阜のえきまでいったことは「濃尾平野をいく」にかいた。ほのつづきになる。岐阜のまちをみなみからきたにあるく。
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にしむきの岐阜のえきのコンコースからほのまままっすぐおおかいだんをしたにおりると、ほこが長良橋どおりのひがしがわの歩道だ。この歩道をきたにほんのちょこっとだけいって、名鉄岐阜駅前交差点をみぎにまがってひがしにすすむ。めざすさきは岐阜城下のまちなみで、長良橋どおりをほのままきたにあるいていきゃあいけるだけど、ほんな国道にもなっとるクルマどおりをあるいていってもおもしろくないだらあってことで、ひがしに平行するみちをあるいていくことにしただ。
ひがしにすすんでさいしょの交差点が長住町1丁目(ながずみちょういっちょうめ)交差点で、これをひだりにまがって一路きたにすすむ。
ぜんぜんはなやかなとおりじゃないけど、ひだりがわに岐阜中央郵便局もあるし、このあたりも岐阜の都心部のうちだってことがわかる。電車のつかれもあって、てきとうにはいった喫茶店でモーニングをしてから、また、きたにすすむ。
東金宝町1丁目(ひがしきんぽうちょういっちょうめ)交差点で東西のクルマどおりをよこぎる。
さて、みぎうしろからべつのみちが合流してきたとこに、おんなのひとがはだかでたっとる銅像がある。銘板をみて、岐阜市制100年記念に設置されたもんだってことがわかる。このみち、けっこう重要なみちなのか。
岐阜市制100年記念 - 1981年2月吉日
(115) 銅像(まえから)、(116) (うしろから)、(114) 岐阜市制100年記念
銅像のちょっときたには、「おすし街道」っていうたてふだもたっとる。ほー、将軍に献上する「あゆずし」をはこんだみちがこのみちなのか。合流してきたほうのみちがおすし街道だって、こっからさらにきたにすすんで岐阜城下までつながっとるだ。
おすし街道について
おすし街道は、長良川のうかいでとれたあゆをめしとともに発酵させたあゆずしを、江戸の将軍家へ献上するために搬送した街道です。あゆずしは岐阜をしゅっぱつし、名古屋をとおって東海道経由で江戸まで、しゅくばをつなぐリレー方式で搬送されました。輸送の先頭には監督役の「宰領」、つぎに老中の証文をはこぶ「ご証文ばこもち」、つづいてすしをはこぶ人足が交代要員もふくめて10人ほど。「ちょうちんもち」などもくわえると、搬送行列は15人前后で構成されとったってみられます。
あゆずしは、たべごろに江戸の将軍家にとどけんといかんもんだけに、厳重なにの管理と、遅延なきうけつぎがもとめられました。「刻付帳」へのとうちゃく時刻の記載、なわのゆるみやはこのきずなど、にの現状かくにんのもうしおくりも義務づけられておりました。
(117) おすし街道たてふだ、(118) 説明文、(119) さしえ
舗装が、ほれまでのアスファルトからうすももいろに化粧されたしゃれたもんにかわる。おすし街道としててがいれられとるだ。
金園町2丁目(かなぞのちょうにちょうめ)交差点までいったとこで、みなみをふりかえってみる。銅像とたてふだがふたまたのとこにみえる。
交差する東西のとおりをにしむきにみてみる。歩道にアーケードのついた商店街だ。
おすし街道をまたきたにすすむ。由緒ありげな事業所もいくつかある。
美園町4丁目(みそのちょうよんちょうめ)交差点。さて、ここまでほんなにクルマのとおりがおおいわけじゃないけど、1台1台がけっこうないきおいではしっとって、ちょっとおそがい。左右は、事業所があったりみせがあったりっていう状態がつづく。
交差するみちをにしむきにのぞいてみる。車道はいちょうもようの舗装、歩道はももいろの舗装がしてあるしゃれたみちで、ところどころに歩道をでっぱらせてクルマの速度をおさえるようにもしてある。ふるい商家っぽいたてもんもある。
また、おすし街道をきたにすすんで、若宮町1丁目(わかみやちょういっちょうめ)交差点。
交差するみちはとてつもなくひろい。にしむきにみる。
ひがしむきにみると、もりがみえる。
ちょっといってみると、橿森神社(かしもりじんじゃ)っていうおみやさんがある。信長ゆかりのおみやさんらしい。うしろのやまは、岐阜城のある金華山(きんかざん)からつづくやまなみのみなみのはしだ。
おすし街道にもどって、また、きたにすすむ。
美園町1丁目(みそのちょういっちょうめ)交差点。左右は事業所が主体だ。
どんどんきたにすすんで、小熊町2丁目(おぐまちょうにちょうめ)交差点。
また、ちょっときたにすすんで、ガソリンスタンドのとこからおすし街道は一方通行になる。りょうがわに歩道がついて、車道がみなみいきだけの1車線になるだけど、やっぱりクルマはびゅんびゅんはしってくる。
きたにすすむ。たかいビルがすくなくなって、まちなみはひくくなる。
むかしながらの商家、あるいはふるい商家っぽいたてもんもぽつぽつ。
伊奈波通1丁目(いなばどおりいっちょうめ)っていう交差点まできた。岐阜城の別名が稲葉山城(いなばやまじょう)だ。まあはいこのへんが岐阜城下のまちなみになるのか。
交差点からひがしむきに、街路樹もあるきちんとととのった歩道のついたみちをいってみる。
つきあたりに善光寺がある。まえに祖父江(そぶえ)の善光寺にいったことがあるだけど、善光寺ってのはどこにでもあるもんだ。ほのわきをぬけてやまのおくは、伊奈波神社(いなばじんじゃ)につながる。
おすし街道にもどって、また、きたにすすむ。左右にこじゃれた高級料理店がぽつぽつとある。ぼちぼちごはんにしてもいいだけど、おひとりさまでひるにたっかい料理をたべるのもどうかっておもって、あるきつづける。
ちょっとみぎの駐車場にはいってみる。おー、岐阜城だ。土蔵のやねごしに、金華山のいただきにたつ岐阜城がみえる。往時、信長はあの天守からにしに京をにらんだのか。
まあちょっといって、おすし街道はT字につきあたる。おすし街道と平行してきたにのびてきた長良橋どおりがひがしにおれて、おすし街道にたちはだかっただ。
(141) T字(きたむき)、(142) T字からみなみむき
T字からひがし、長良橋どおりのむこう、金華山のうえに岐阜城がちいさくみえる。
T字からどうすすんでいいかわからんままに、みぎクランクして長良橋どおりをこえてきたにすすむ。
これがおすし街道のつづきかどうかわからんけど、みちはやっぱりうすももいろに化粧されとる。一帯は住宅街のなかにみせもあるってかんじのとこで、ふるいたてもんもぽつぽつとある。
みちはアスファルト舗装にかわって、堤防道路につきあたる。長良川まできただ。
クルマがみぎからひだりからひっきりなしにとおる堤防道路をやっとのことでよこぎって、長良川をながめる。いや、ほれにしても、歩行者なんか眼中にないかのようにクルマのびゅんびゅんはしること。さっき長良橋どおりをわたったときも、横断歩道をあるいとるのにとおくにみえとった1台のクルマが猛然とむかってきた。はねとばしにきたのかっておもったぐらいだ。
これが長良川か。岐阜ってもともとこの長良川に面したまちだっただ。かわのむこうに長良川競技場がみえる。なんでほんなひなびたとこに競技場があるだっておもっとっただけど、ほんなことはなかっただ。
かわしもにおおきなはしがみえる。
かわかみにりっぱなホテルがみえる。
うすももいろの化粧舗装とアスファルト舗装のかわりめのとこまでもどって、こみちをひがしにはいって、クランクしていく。住宅街のなかのこみちなのにやっぱりうすももいろの化粧がしてある。
(151) ナガラガワフレーバーからひがしえ、(152) ひだりクランク
ふるいこうばのくろかべのよこをとおって、むこうにぬけていく。ふるいこうばは、あとでしらべたら柏周っていうかみ製品をつくっとる会社のこうばだった。
南北のとおりにでた。やっぱりうすももいろの化粧がしてある。
(154) 東材木町交差点(きたむき)、(155) みなみむき
きたにみえたはしのとこにいってみる。東材木町(ひがしざいもくちょう)交差点のきたにくっついとるはしで、美登里橋っていうなまえがついとる。はしのむこうにふるいまちなみがみえる。
美登里橋のすぐかわしもにおおきな水門がある。かわは忠節放水路(ちゅうせつほうすいろ)っていうなまえで、この水門で放水量を調整するだ。
美登里橋の上流に、きれいないしばしがみえる。
いってみる。霞橋っていうなまえがついとる。このはしのむこうにも、ふるいまちなみがみえる。おすし街道の起点をつきとめるのをあきらめて、むこうぎしにわたる。
霞橋で忠節放水路をきたにわたったつきあたりを、みぎにまがっていく。進行方向は東北方向。
ずらーって、ふるいたてもんがたちならぶ。
しばらくいったとこに、たてふだがある。信長のまえの斎藤道三のときにここ川原町にかわみなとをつくって、以来、信長のときから江戸時代をつうじてここを中心に岐阜がさかえてきただ。
川原町(かわらまち)(湊町(みなとまち)、玉井町(たまいちょう)、元浜町(もとはまちょう))の由来
斎藤道三、織田信長のころ(16世紀なかごろ)から、このあたりは中川原(なかがわら)(明治初期には富茂登村(ふもとむら))とよばれ、いちばがひらかれ、商業の拠点として繁栄しとったようです。
道三は城下まちをつくるにあたり、ここからかみにかけてのばしょにかわみなとをもうけ、長良川の上流域で豊富に産する美濃紙、木材、茶などや当時の名産品であった関のはものを、ここを中継地にして全国各地にうりさばいたともかんがえることができます。
江戸時代になると、尾張藩がここをおさめ、長良川役所がおかれました。ここをくだるにぶねから船役銀(ふなやくぎん)(通行税)を徴収しました。にの種類はたけかわ、さけ、はい、すみ、かみ、き、茶、こめなど多様でした。ほれらをとりあつかうかみどんや、材木どんやなどがのきをつらねておりました。いまでも当時の商家をしのばせる格子づくりがのこっております。のきやねにもうけられておりますやねかみさまは町内を火災からまもる秋葉さまです。
めずらしいところでは、明治のころのふるい銀行のたてもんもあります。また、道三のこ斎藤義竜(さいとうよしたつ)が建立した禅宗寺院の伝灯護国寺(でんとうごこくじ)あとには、庚申堂(こうしんどう)がたてられております。むかしのおもかげがただようこの地域の散策は、うかい情緒をさらにたかめてくれます。
川原町まちづくり会
(163) 川原町の由来
あゆみをすすめる。平日だであんまりひとどおりはおおくないけど、ほいでもわかいおんなのひとがなかまづれであるいとったりする。岐阜にこんなとこがあるってしらんかった。名鉄、JRの岐阜のえきのへんだけが岐阜じゃないだ。
まあちょっとあるいて、ぎふ長良川うかい観覧船事務所にあたる。長良橋のたもとまできただ。川原町のとおりはここでつきて、このうらがうかいぶねのふなつきばになっとる。うん、ここは夫婦づれやなかまづれできて、うかいをたのしんでまちなみをたのしむとこなだ。また、あらためてくることにした。
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(さんこう)
- 濃尾平野をいく - あきひこゆめてつどう|2018/02/21
- 8時55分、岐阜にとうちゃく。かいさつをでて、まちにはいっていく。
- 御鮨街道/道路建設課/岐阜市公式ホームページ|2017年3月27日更新
- 川原町 (岐阜市) - Wikipedia
- 川原町(かわらまち)は、岐阜県岐阜市にある長良橋南の通りの名称およびその地域一帯の通称である。
- 長良橋のたもとにある鵜飼観覧船事務所から南へ延びるこの通りは、湊町、玉井町、元浜町地域を横断し材木町へと続く。この地域は江戸時代より長良川の重要な港町として奥美濃からの木材や美濃和紙の陸揚げが多く、それを扱う問屋町として栄えた。特に美濃和紙は岐阜提灯、岐阜和傘、岐阜うちわなど岐阜市の伝統工芸には欠くことのできない物で川原町が岐阜市の工芸品を生んだと言っても過言ではない。奇跡的に戦中の岐阜空襲を逃れることができたこの地域には、現在も格子戸のある家屋や狭い間口に長い奥行きという昔ながらの日本家屋が軒を連ねている。岐阜市の「長良川プロムナード計画」による整備が行われるまでは空家や倉庫として使われる建物が多く注目を浴びることは少なかったが、近年は整備が進み町並みが整い鵜飼観光などで訪れた人々で賑わっている。