2019年4月ここのか、岡崎公園のなかに岡崎城下東海道の地図があるのをみつけた。以下に、みつけたみっつの地図を紹介する。
◇ ◇
1.東海道27まがり岡崎宿の地図
東海道の変遷
東海道は鎌倉時代になって京都から26番めの宿が矢作宿(やはぎじゅく)であり、14世紀末東矢作岡崎郷が明大寺(みょうだいじ)に出現しました。1590年、田中吉政が岡崎に入城し城下町の建設にとりかかり乙川(おとがわ)*1の南岸をとおっとった東海道を城下にみちびきいれ、矢作橋の架設に着手しました。1601年、本多康重が岡崎藩主となり、田中吉政の城下町建設をひきつぎ、矢作橋を完成しました。1607年の大洪水によって八町の町民を城東の台地にうつし、伝馬町(てんまちょう)を新設し、つづいて連尺町(れんじゃくちょう)篭田町(かごたちょう)両町もつくられ、まちなみがほぼ完成し、「岡崎宿36町27まがり」っていわれるようになりました。
城下のまちかどをおおくしたのは防衛の必要からですけど、まちなみをながくして商家のにぎわいをまねく利点もこうりょされたもんっておもいます。
いや~、おもしろいな~。岡崎より矢作のほうがふるいだ。矢作のほうが鎌倉時代からあるのに、岡崎のほうは14世紀末になってはじめてあらわれる。ほれも東矢作岡崎郷っていうなまえでだ。ほいで、江戸時代になってやっと岡崎の城下町が形成されて、ほれまで菅生川の南岸をとおっとった東海道を、北岸の城下町のほうにひきこんだだ。
なんで27まがりものまちかどをつくったかっていうと、防衛上の理由のほかに、まちなみをながくして商家のにぎわいをまねくためでもあったっていう。これもおもしろい。
これは、いまの街区にむかしのおほりや東海道をかさねてある。う~ん、いまのこっとるおほりよりおほりがいっぱいあるわ。ほいで岡崎城は菅生川のきたがわにくっついて築城されとるで、もともと菅生川のみなみがわにあった東海道をきたがわにまわすっていうと、こんなふうに岡崎城のきたがわをぐるーってまわっていくかたちになるだな。いまの、国道1号線がまちなかを直線でぶちぬいとる状態しかあたまにないと、なんで東海道がこんな27まがりがあるほどくねくねしとったのかふしぎなだけど、こうやってむかしの地図をみてみると、ようわかるね。
3.東海道分間延絵図
この地図は岡崎城下とほの前后をふくめた東海道の地図みたいだけど、ようわからん。まえふたつの地図もいっしょだけど、みんなこかげにかくれたうすぐらいとこにあるだけじゃなくて、水平にちかくねかされとって、ほんとにみにくいだ。せっかくかねかけて地図のいしぶみつくったなら、まあちょっとみえるようにおいてもらいたい。
*1:乙川は菅生川のこと。