西大平藩陣屋をみてきた - 2020年3月ここのか

2020年3月ここのか、西大平藩陣屋(にしおおひらじんや)をみてきた。このふつかまえに男川(おとがわ)のえきからほどちかく、大西集落のなかに白鳥神社(しらとりじんじゃ)っていう神社を発見して、ほこでたまたま氏子総代副代表のかたからはなしをきくことができただけど、ほのはなしのなかで、「大西集落が大岡越前守の領有地だった」ことや「ほの陣屋あとが大平にある」ことをきいて、たしかめにいったってわけだ。

ばしょは、岡崎のまちから東海道を4キロぐらいひがしにいったとこ。乙川(おとがわ)の右岸、大平町のまちのなか、男川小学校のすぐにしにある。いや、乙川の左岸にある男川のえきからこんなにはなれたとこにある小学校なのに、男川小学校なだ。「男川」って町名にも字名にもないなまえなだけど、いったいどいだけの範囲が男川なのか。おんなじ「おとがわ」なのに、「おとめのかわ」ってかいたり「おとこのかわ」ってかいたりするのも、ようわからん。

2020.3.9 (5) 西大平藩陣屋あと - 門 2000-1500

まよいまよいして現地にとうちゃく。みちに面してにしむきに、かわらやねつきの門。門からつづいてりょうがわに、かわらやねつきの塀。壁面はうえがしろぬりで、したがくろいいたばり。門のみぎのはしらに「西大平藩陣屋あと」ってかいてある。ほんとに大平に陣屋あとがあった。

2020.3.9 (4) 西大平藩陣屋あと - 「大岡越前守陣屋あと」 1920-1500

塀のそとがわ、いちばんみぎはしのほうに説明がきのかんばんがあって、よんでみる。
大岡越前守陣屋あと」 〔※ 説明がきのかんばん 1〕
「大岡さばきでなだかい大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたとこ。陣屋は明治維新で廃止されたけど、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋あとを保存すると同時に旧藩主に東京から移住をねがうこえがあがり、大岡家別邸として復活した」。
いや~、まずこんなとこに江戸時代に藩があったってとこからおどろきなだけど、さらにほの藩主が、テレビの時代劇でおなじみの大岡越前守だっていうでおどろきだ。

かんばんのみぎしたにある石柱のいしぶみには、「史蹟大岡越前守旧邸」ってかいてある。いったいどこに旧邸があるのか。

門からなかにはいって、また説明がきのかんばんがあって、よんでみる。
「西大平藩」 〔※ 説明がきのかんばん 2〕
「西大平藩の成立は、大岡忠相(おおおかただすけ)が1748年に奏者番(そうじゃばん)兼寺社奉行に就任して、三河のくに宝飯郡(ほいぐん)、渥美郡(あつみぐん)、額田郡(ぬかたぐん)の3郡内で4,080石を加増され1万石の譜代大名(ふだいだいみょう)となり、西大平に陣屋を設置したことにはじまる。1772年以降藩領の変動はなく、1万石のうちわけは三河のくに4郡内に9千石あまり、上総(かずさ)のくに、相模(さがみ)のくにの2国2郡で1千石あまりとなり、大部分がこの三河のくにに所在しとった」。
大岡忠相大岡越前守のことだ。江戸の寺社奉行から出世して、三河のくにの1万石の譜代大名になっただ。

2020.3.9 (7) 西大平藩陣屋あと - 「西大平藩三河領の分布」 1190-1350

説明がきにはとなりに地図もついとって、藩領がわかる。岡崎に、岡崎藩以外に西大平藩っていう藩がたしかにあっただ。地図をみると、説明がきにかいてある額田郡宝飯郡だけじゃなくて、わが碧海郡(へっかいぐん)の一部や、ほのきたの加茂郡(かもぐん)の一部にも西大平藩領があったとこがわかる。

2020.3.9 (8) 西大平藩陣屋あと - 庭園 2000-1500

かんばんのうしろに庭園。額田郡の地形を、まんまるの庭園のなかにあらわしとるだ。いちばんてまえを矢作川(やはぎがわ)がひだりからみぎにながれる。ほっからおくに支流の乙川がさかのぼっていって、おなじくおくにのびていく東海道と交差する。おしろや陣屋、西大平藩領の12か村がいしであらわしてある。てまえのほうから、東海道のみぎに岡崎城のいしがあって、すすんで東海道のひだりに西大平陣屋のいしがあって、またすすんで乙川が東海道のひだりにきたとこからむこうに、12か村のいしがちらばる。おもしろいな。

庭園のうしろ、しきちをかこうたけの塀のまえにまたまた説明がきのかんばんがあって、よんでみる。
「西大平藩陣屋」 〔※ 説明がきのかんばん 3〕
「西大平藩陣屋は大岡越前守忠相が三河の領地をおさめるためにおいた陣屋。大岡忠相は旗本だっただけど、72才のときにさきの将軍吉宗のくちぞえもあり、1748年うるう10月ついたちに三河のくに宝飯郡渥美郡額田郡3郡内で4,080石を加増され、1万石の大名となった。西大平に陣屋がおかれたのは、東海道すじにあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっともおおかったことがかんがえれる。
しかし、大岡忠相が藩主であったのはわずか3年間で、1751年にはなくなっとる。2代めは忠宜(ただよし)がつぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地をおさめつづけていく。
大岡家は江戸に常駐する定府大名(じょうふだいみょう)で、参勤交代がなかった。家臣団の大部分は江戸にすんでおり、陣屋づめの家臣は、おおい時期でも郡代(ぐんだい)1人、群奉行1人、代官2人、手代(てだい)3人、郷足軽(ごうあしがる)4、5人ていどだった」。
なるほど、旗本だった大岡越前守が出世して三河に領地をふやして1万石の大名になったってわけだ。

さらにしきちをひだりおくにはいっていったとこに、説明がきのかんばん。こいでよっつめだ。まあはいあたまがパンクしそうになっとるだけど、よんでみる。
大岡越前守忠相」 〔※ 説明がきのかんばん 4〕
「1677年から1751年。旗本のいえがらにうまれ、8代将軍吉宗のもとで江戸町奉行としてつかえ、享保の改革(きょうほうのかいかく)を断行するおおきな原動力になった。著名なものに、相対済し令(あいたいすましれい)、目安箱(めやすばこ)、小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)設置、いろは四十七組の町火消(まちひけし)の組織化、江戸防火対策である火除地(ひよけち)の確保と「瓦ぶき」やねとする建築基準の設置など、江戸庶民の生活向上にちからをそそいだ。また、問屋、仲買、小売の流通段階での株仲間組合の組織化や金銀相場の改定、通貨改鋳による物価安定策などをうちだし、幕府財政のたてなおしをはかった。
晩年は譜代大名にとりたてられ、奏者番寺社奉行として職務をまっとうした。1751年に75才で没し、相模のくに堤村(いまの茅ケ崎市にある)の浄見寺(じょうけんじ)にほうむられた」。
うん、享保の改革ってきいたことあるわ。享保年間は1716年から1736年。説明がきの文章じゃあ、いろんな施策をやったのが大岡越前守なのかどうかようわからんだけど、とにかく幕府財政のたてなおしにつながる、なんらかの尽力をしただ。

ところで、しきちのつきあたりおくに神社がある。

2020.3.9 (9) 西大平藩陣屋あと - 大岡稲荷社 2000-1500

いったん陣屋の門をでて、みちをまわって、みなみがわにある神社の門からはいっていく。冠木門(かぶきもん)のかたちの、やねのない門もしぶいし、門からおくにあっかいとりいがあって、さらにほっからおくに社殿がみえるっていう光景もすてきだ。とりいもくぐって、社殿におまいり。簡素な社殿だ。

社殿のわきに説明がきのかんばんがあって、よんでみる。
「大岡稲荷社」 〔※ 説明がきのかんばん 5〕
「忠相は豊川稲荷の本尊『吒枳尼真天(だきにしんてん)』をあつく信仰。江戸赤坂の藩邸に赤坂稲荷をまつり、ここ西大平陣屋内に大岡稲荷を建立。『豊川吒枳尼尊天(とよかわだきにそんてん)』を本尊としてまつった。現社殿は、忠相没后250回忌の記念事業として2002年に再築されたもん」。
大岡越前守は豊川稲荷ともかかわりがあっただ。

2020.3.9 (11) 西大平藩陣屋あと - となりの旧宅の土蔵 1500-1920
2020.3.9 (10) 西大平藩陣屋あと - となりの旧宅 1600-1200

大岡稲荷社の門をでて、むかってみぎどなりに旧宅。ここにきてさいしょによんだ、説明がきのかんばんのみぎしたの石柱のいしぶみにかいてあった「史蹟大岡越前守旧邸」が、ひょっとしてこの旧宅なのか。

見学をおえて、うちにもどる。


(さんこう)

  • 男川(おとがわ)でおりてみた - 2020年3月なのか - あきひこゆめてつどう|2020/03/13
    • おりたことのないえきでおりてみたらなにがあるのか。2020年3月なのか、名古屋本線東岡崎のひとつひがしにある男川(おとがわ)のえきでおりてみた。
    • 白鳥神社熱田神宮の系統の神社。区画整理事業にあわせていまみたいに整備した。むかしは、拝殿むかってひだりの木造かわらぶきのたてもんが拝殿だった。いまはものおきでつかっとる。さらにむかしは、名古屋本線みなみのおかのうえにあった」。
      「祭神はやまとたけるのみこと。大平地区のなかの大西集落の神社。大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)の領有地だった。乙川のむこうがわに陣屋あとがあるだけど、いまも子孫がおって、やしきあともある。おくのあっかいとりいは大岡越前守が奉納したもんだ」。
  • 東海道にある男川小学校西交差点(江戸がわから京がわをみたとこ)
    • こっから東北方向にちょこっといったとこに西大平藩陣屋あとがある。ただし、みちはとってもわかりにくい。
      2020.3.9 (3) 男川小学校西交差点を右折 1180-900