西本郷の和志取神社

2020.5.12 (5) 和志取神社 - おおとりい 2000-1500

まえに、西本郷にあるいさきいりひこのみこのはかにおまいりしてきたとこで、こんどはおんなじ西本郷にあるいさきいりひこのみこの神社におまいりしてきた。ほれが和志取神社(わしとりじんじゃ)だ。西本郷のまちの区域は、にしの洪積台地とひがしの沖積平野にまたがってあるだけど、はかが台地部のはしっこの和志山(わしやま)にあって、和志取神社が平野部にあるっていう関係にある。中間はたんぼがひろがる。

◇            ◇

大日堂

2020.5.12 (1) 西本郷 - 大日堂 1600-1200

さいしょに、和志取神社の、みちをへだてたすぐひがしがわにある、大日堂におまいり。みなみむきにたつ伽藍はかわらぶき、よせむねづくりで、唐破風(からはふ)の向拝(こうはい)がついとる。みぎに、わたり廊下でつながって西本郷町公民館。

しきちの一角に説明がきのかんばん。岡崎市指定文化財が2点あるってかいてある。ひとつが木造金剛界大日如来座像で、まあひとつが木造聖観世音菩薩立像。ともに、もとは和志取神社の本地仏で、明治維新で大日堂に分離されたってつたえられるとのこと。ほー。1961年3月30日指定。

2020.5.12 (2) 西本郷 - 大日堂 1440-1080

このあと大日堂のまわりをまわってみたとこで、あれ?よせむねじゃないじゃん。一見よせむねにみえるけど、うらにまわってみるときりつまだ。経費節減でこうなったのか。

和志取神社

さて、和志取神社。東西にのびるあんじょう街道からきたにはいっていく生活道路のにしがわにあって、道路にそって南北にほそながい境内だ。

2020.5.12 (3) 西本郷 - 和志取神社 - 参道 1800-1500

いちばんみなみから参道にはいっていく。ひだりに「式内社和志取神社」ってかいたおおきな石柱。うらめんに、「境内8反15歩、西本郷町戸数475戸、1992年11月吉日建之、岡崎市矢作石工団地犬昇石材店」ってかいてある。西本郷は矢作地区の西部、石工団地(せっこうだんち)は矢作地区の南部にあるだけど、犬昇石材店ってかわったなまえだな。

2020.5.12 (4) 和志取神社 - 由緒がき 2500-1900

すすんで、ひだりに由緒がき。「祭神はいさきいりひこのみこ(五十狭城入彦皇子)。ちち景行天皇の命令で三河のくににきて大任主等をうってこの地方をおさめた。この地でなくなって和志山にはかをつくって、和志取神社でおまつりしとる。西三河地方のおおくのひとがいさきいりひこのみこの血縁になる。三河国神名帳115座の筆頭」ってなことがかいてある。大任主等ってのはようわからんけど、とにかく天皇の皇子がここまできて敵をほろぼしてこの地をおさめただ。この地に子孫もおおくおるのか。神名帳(じんみょうちょう)ってのは、900年代にできた全国の神社一覧のことだけど、三河のくににある115座のかみさまのなかでこの和志取神社が筆頭にあるってすごいな。由緒がきが設置されたのは1993年6月。

すすんで、左右にはたたて。左右に灯篭。

みぎに説明がきのかんばん。「この神社では、祈年祭、春季祭、例祭、新嘗祭と年4回の大祭がおこなわれ、浦安の舞(うらやすのまい)が奉納される。とくにあきの新嘗祭では、豊年をいわう甘酒祭が1915年からこんにちまでつづけられる」ってかいてある。いや、浦安の舞ってのがどんなもんか、いっかいみてみたいもんだ。

じゃりみちの参道をすすんでいく。ひだりはずーっとこだち。っていうか、もりにちかい。すすんで、ひだり、こだちのおく、ひがしむきに神宮社っていうちいさなおやしろがあって、おまいり。すすんで、ひだり、こだちのおくにさかきのき。ここにもじゃりみちの参道があって、ほのおくに、1段のいしづみのうえに石柱列がめぐらされとって、さらにたけざさとしめなわでかこったなかに、ちいさなさかきのきがあるだ。ごていねいにまつってあるもんだ。

2020.5.12 (5) 和志取神社 - おおとりい 2000-1500

もどって、おおとりいをくぐる。左右のはしらそれぞれに、石材でくんだささえまである、りっぱなおおとりいだ。ひだりのいしぶみに、「1992年11月23日|奉丹建石|犬昇石材店|岡崎市住人|初代犬塚昇二」ってかいてある。神社名をかいた石柱のうらめんにかいてあった犬昇石材店の犬昇って、社長の犬塚昇二さんのことだっただ。

おおとりいをくぐったとこで、そうじをしとったおじさんがこえをかけてくれる。神社のせわがかりのおじさんだって、かみの資料を3枚くれる。ちょくちょくここをおとずれるひとがあるらしくて、いろいろとメモをとっとるほういうひとたち用に資料をわたしとるとのこと。ありがたい。

おじさんに、さかきのきのことをきいてみる。いや、このきがさかきだってことも、きいてはじめてわかっただけど、これが「はらいどう」だっていう。たてもんはないけど「どう」だ。なんか行事をやるときは、みんなでさいしょにここでおはらいをしてもらうとのこと。うーん、きよめのきだっただ。

さらにおじさんは、大日堂のこともおしえてくれる。もともとこの境内にあったもんが、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)でいまのばしょにたてかえたとのこと。もとの大日堂のたてもんはいまも和志取神社の境内にあって、倉庫としてつかっとるとのこと。ほいで、いまのばしょの大日堂では、西本郷のまちのひとたちが当番で、まいにちおぶくさんをあげとるとのこと。じもとのひとたちの、木造金剛界大日如来座像にたいする信仰のあつさをおもいしる。

あと、西本郷のまちがにしの台地のとこと、ひがしの平地のとこにわかれとることをきくと、もともとのまちは平地のとこだけだったとのこと。おもったとおりだ。台地のほうには、和志山にいさきいりひこのみこのはかと、ほのとなりの蓮華寺(れんげじ)があっただけなだ。

ちなみに、おじさんがくれた資料は、「由緒がき」、「社記」、「西本郷大日堂の金剛界大日如来座像」の3枚。由緒がきには、いしぶみにかいてあったことにくわえて、「和志取神社は、長谷部神社や本郷大明社ともいうこと」や、「いさきいりひこのみこは三河の長谷直(あたい)の祖先で、子孫は三河の地でさかえて、御使連、御使朝臣、長谷部直にわかれれたこと」なんかがかいてある。どうも、長谷部さんとかかわりがふかい神社なだ。

おじさんに礼をいって、また、おくにすすむ。

ひだり、ひがしむきに社口社っていうちいさなおやしろ。すすんで、ひだりにちょうずしゃ。みぎに社務所

2020.5.12 (6) 和志取神社 - もと大日堂 2000-1500

ひだりおくに、もと大日堂。いまは倉庫としてつかっとるっていう、もと大日堂だ。みなみむきにたつ伽藍はかわらぶき、よせむねづくり。いまの大日堂みたいな「よせむねふう」じゃなくて、正真正銘のよせむねだ。風格がある。

2020.5.12 (7) 和志取神社 - 社記 2500-1900

みぎに社記。ほぼ、由緒がきの内容。ただ、由緒がきに「大任主等」ってなっとったのが、社記では「逆臣大王主等」になっとる。ほいから、由緒がきにはかいてなかったけど、社記ではこの地が和名抄(わみょうしょう)にいう「鷲取郷」だったことがかいてある。和名抄ってのは、神名帳よりちょこっとあとの、おなじく900年代につくられた辞書で、古代律令制における国・郡・郷の名称を網羅しとるもんだ。いや、いまは西本郷っていっとるこの地も、そもそもは「鷲取」だったにちがいない。鷲取の中心部を本郷っていうようになって、ほの本郷がまたいまの西本郷、東本郷、北本郷にわかれたじゃないかな。社記が設置されたのは1983年1月ついたち。

2020.5.12 (8) 和志取神社 - 拝殿 2000-1500

みなみむきにたつ拝殿におまいり。かわらぶき、ひらいり。拝殿のてまえ、左右に灯篭、左右にこまいぬ。拝殿のりょうわきにまた灯篭。

拝殿からおくにつづいて、わたり殿とおおい殿。ともにかわらぶきだけど、おおい殿はつまいり。わたり殿ひだりわきに神饌所。これがある神社はすくない。

拝殿からみぎおく、平地に、御鍬社と天王社が合同になったやしろ。さらにほのみぎ、もりやまのうえに稲荷社。本殿のうしろ、もりやまのうえに「宝物殿あと」のいしぶみ。いま、宝物殿はどこにあるのか。宝物はどこにいったのか。ほのひだりてまえに巨大なくすのき。

2020.5.12 (9) 和志取神社から西北に和志山をみる 1580-1200

社殿から西北にこだちをぬけたとこから西北に、いさきいりひこのみこのねむる和志山のもりをみる。たうえがおわったばっかりの、みずをはったたんぼをつたってくる初夏のかぜがきもちいい。きたに、名古屋本線をにしいきにいく貴婦人がみえる。

〔2020年5月12日訪問〕


(さんこう)

  • 西本郷和志取神社の由緒がき - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/05/14
    • 本社祭神五十狭城入彦皇子気入彦命とも申す|人皇12代景行天皇の皇子にして勅を奉じて三河国に至り大任主等を討って最初に此の地方を治め給ふ|后遂に此の地に薨去ましまして和志山の地に陵墓を定め給ひ神霊を祀りて和志取神社と称す|其の子孫永く此の地方に栄えませしかば西三河地方の多くの人は命の御血縁につながるが故に本神社は当地方の大氏神なり|尚延喜式内の旧官社にして三河国神名帳115座の筆頭にのり歴代領主の崇敬殊に篤く祈年新嘗の特使を遣わし祭典の費用を助成し給ふ
  • 西本郷和志取神社の社記 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/05/14
    • 御祭神:五十狭城入彦皇子
    • 五十狭城入彦皇子気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大王主等を捕えこれより国内治まり庶民大いに安堵したという
    • 御墓は当町和志山にあり前方后円墳で前后35間面積776坪|周辺に6基の円墳即ち陪塚がある|1896年11月28日御陵墓伝説地と指定|その后更に調査の結果1941年4月18日御陵墓と御勅定|同年5月26日勅使御参向奉告祭が行われた
    • 本神社は和名抄にいう鷲取郷の総社で延喜式国内115社の筆頭たる旧官社で1830年神祇伯より正一位の神階を受け正一位本郷大明神の扁額を下賜されたという|古来上下の尊崇篤く累代の領主より祭典費の献進があり祈年祭新嘗祭には幣帛を奉り宝祚無窮稔穀豊饒を祈る例であった
    • 1874年5月25日教部省令により本神社を延喜式三河国26座之内和志取神社確定候事との指定を受けた|1888年4月9日蓮華寺内で和志取神像が発見された|延喜年間の作と伝えられる木製の座像で本神社に鎮め祀ってある
    • 1916年12月28日郷社に列せられた
    • 1946年1月10日由緒上県社と認められたが戦后社格は級社と変わり7級社として現在に至っている
    • 拝殿祝詞殿神饌殿透塀等を氏子及び特別崇敬者よりの浄財と延2千6百余人の勤労奉仕により3ヶ年の歳月を費し1955年竣工した
    • 末社:神宮社、御鍬社、社口社、稲荷社
  • 西本郷大日堂の金剛界大日如来座像 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/05/14
    • 西本郷の和志取神社をおとずれたときに、ちょうどそうじをしてみえたせわがかりのおじさんから、となりの大日堂にある金剛界大日如来座像についての資料をもらった。
    • 和志取神社の本地仏と伝えられとる。和志取神社の別当寺だった和志王山薬王寺の仏像だったが、1335年に矢作川合戦の兵火で寺が焼失したため、その后、和志取神社境内の仏堂に安置された。
    • 明治の神仏分離令によって、仏像は一時蓮華寺に移されたが、1891年に現在の大日堂を新築して安置し、地域の守り尊として大切にされとる。
  • 西本郷にあるいさきいりひこのみこのはか - あきひこゆめてつどう|2020/05/08
    • 西本郷(にしほんごう)は蓮華寺(れんげじ)をおまいりしたついでに、いさきいりひこのみこ(五十狭城入彦皇子)のはかをおまいりしてきた。
    • はかいしにあたるもんがどこにもみあたらんだけど、とにかく鉄とびらのてまえでおまいりして、かえる。
    • いや、あとでわかったことだけど、じつは、ひな壇のおくのやまが和志山古墳(わしやまこふん)っていう前方后円墳だって、ほれがほのままいさきいりひこのみこのはかだっただ。どおりで、はかいしがみあたらんかったはずだ。
    • ほれにしても、天皇の皇子っていうえらいひとのはかが、こんな三河のくににあるってのもおどろきだな。ほいから、景行天皇の皇子っていうと、やまとたけるのみこともほなだけど、やまとたけるのみことも東征のとちゅうで、三河のくにの矢作(やはぎ)や榎前(えのきまえ)にたちよっとる。はらちがいの兄弟であるいさきいりひこのみこも三河のくにの西本郷にはかがある。これも興味ぶかいことだ。
  • 延喜式神名帳 - Wikipedia
    • 延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)は、927年にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されとった全国の神社一覧である。
    • 延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2,861社で、そこに鎮座する神の数は3,132座である。
    • 式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されとった神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。式外社だが六国史に記載がある神社を特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社も含む)。
  • 和名類聚抄 - Wikipedia
    • 『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)
    • なお二十巻本は古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅しており、この点でも基本史料となっとる。