西大友町にある大友天神社

2020.8.6 (8) 大友天神社 - 拝殿 1980-1500

まえに小針(こばり)にある大友皇子(おおとものみこ)のはかにいったときに、西大友町(にしおおどもちょう)に大友皇子をまつる大友天神社があるってしって、いってきた。

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2020.8.6 (5) 大友天神社 - 全景 2000-1500

境内はひがしむき。ふつうに神社だ。とりいひだりてまえに「村社大友天神社」のいしぶみ。1910年10月建立で、寄付人は岡田政吉と岡田竜之助。とりいはいしのとりい。1968年10月、明治100年記念に岡田国一、つまスミ、岡田良雄、小林正幸、岡田弘之、岡田好正の6人が奉納。

2020.8.6 (6) 大友天神社 - 由緒がき 1920-1500

とりいをくぐってみぎに由緒がき

祭神は大友皇子こと弘文天皇。鎮座地は愛知県岡崎市西大友町字天神10番地。1876年供進指定村社で、例祭日は10月18日。

由緒に「往昔(おうせき)天智天皇の長子大友皇子壬申の乱にあい、従者長谷部信次らとこの地に流偶し草庵をむすぶ。皇子は『天性明悟にして雅より博古を愛ます』と懐風藻(かいふうそう)にあり。のちに信次、皇子のために一祠を創業奉崇し、これを天神宮と称し、その所在地を大友といい、村落を長瀬村とよぶ」ってかいてある。壬申の乱で自害においこまれたってのはおもてむきのことで、じつは従者長谷部信次ともども三河におちのびとっただ。ほいで、大友皇子がなくなって、従者長谷部信次が大友にほこらをたてたってわけだ。長瀬村はいまも長瀬きたどおり長瀬みなみどおりのなまえがのこっとるけど、明治期にあった矢作地区北部のむらで、大友もふくまれる。

うらめんもかくにん。宮司は畔柳守道と畔柳弘文。寄付人は高橋邦雄、原田魁、岡田幸男、岡田奈保美、塩沢照男の4人。1985年10月建立。

2020.8.6 (8) 大友天神社 - 拝殿 1980-1500

おくにすすんで拝殿におまいり。たてもんはかわらぶき、いりもや、ひらいり。正面のいしだんをあがってえんがわ。えんがわには擬宝珠つきの欄干がついとる。

2020.8.6 (9) 大友天神社 - 本殿 2000-1500

拝殿からおくにつづいて、ともにかわらぶきのわたり殿と本殿。本殿だけいしがきのうえ。本殿からみぎおくに西大友町公民館。一帯は住宅街。

2020.8.6 矢作地区北部の地図(あきひこ) 1360-1520
(かくだい)

〔2020年8月むいか訪問〕


(さんこう)