まえに小針(こばり)にある大友皇子(おおとものみこ)のはかにいったときに、西大友町(にしおおどもちょう)に大友皇子をまつる大友天神社があるってしって、いってきた。
◇ ◇
境内はひがしむき。ふつうに神社だ。とりいひだりてまえに「村社大友天神社」のいしぶみ。1910年10月建立で、寄付人は岡田政吉と岡田竜之助。とりいはいしのとりい。1968年10月、明治100年記念に岡田国一、つまスミ、岡田良雄、小林正幸、岡田弘之、岡田好正の6人が奉納。
とりいをくぐってみぎに由緒がき。
祭神は大友皇子こと弘文天皇。鎮座地は愛知県岡崎市西大友町字天神10番地。1876年供進指定村社で、例祭日は10月18日。
由緒に「往昔(おうせき)天智天皇の長子大友皇子は壬申の乱にあい、従者長谷部信次らとこの地に流偶し草庵をむすぶ。皇子は『天性明悟にして雅より博古を愛ます』と懐風藻(かいふうそう)にあり。のちに信次、皇子のために一祠を創業奉崇し、これを天神宮と称し、その所在地を大友といい、村落を長瀬村とよぶ」ってかいてある。壬申の乱で自害においこまれたってのはおもてむきのことで、じつは従者長谷部信次ともども三河におちのびとっただ。ほいで、大友皇子がなくなって、従者長谷部信次が大友にほこらをたてたってわけだ。長瀬村はいまも長瀬きたどおり、長瀬みなみどおりのなまえがのこっとるけど、明治期にあった矢作地区北部のむらで、大友もふくまれる。
うらめんもかくにん。宮司は畔柳守道と畔柳弘文。寄付人は高橋邦雄、原田魁、岡田幸男、岡田奈保美、塩沢照男の4人。1985年10月建立。
おくにすすんで拝殿におまいり。たてもんはかわらぶき、いりもや、ひらいり。正面のいしだんをあがってえんがわ。えんがわには擬宝珠つきの欄干がついとる。
拝殿からおくにつづいて、ともにかわらぶきのわたり殿と本殿。本殿だけいしがきのうえ。本殿からみぎおくに西大友町公民館。一帯は住宅街。
〔2020年8月むいか訪問〕
(さんこう)
- 大友天神社の由緒がき - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/08/09
- 小針にある大友皇子のはか - あきひこゆめてつどう|2020/07/23
- はかのまえの説明がきをよんでみる。
「しかるに西大友町(にしおおどもちょう)に鎮座する大友天神社の『社志』によると、『大友皇子は自害したといいふらして、ひそかに一族のもの数名と三河にのがれ、大海人皇子の謀反(むほん)をうらみ悲憤にくれたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田(じんでん)にほうむられた。従者長谷部信次が神社を創建し皇子を祭祀した。これが大友天神社である。大友という村名もこれに起因する』という由緒がある」 - うん、壬申の乱って、ならった。大友皇子とか大海人皇子とかいうなまえもきいた。ちち天智天皇からくらいをゆずられた大友皇子だけど、おじ大海人皇子の挙兵によって自害においこまれただ。勝利した大海人皇子は天武天皇になる。ただ、大友天神社の社記によると、おもてむき自害したことにしといて、じつは三河におちのびていきながらえとったってことなだ。ほー。
〔2020年7月23日訪問〕
- はかのまえの説明がきをよんでみる。
- 懐風藻 - Wikipedia
- 長瀬村 (愛知県) - Wikipedia
- 矢作北小学校: 007-本校の歴史