まえに妙源寺(みょうげんじ)にいって、ほこに本多光太郎(ほんだこうたろう)のはかがあることをしったとこで、しらべるうちに、本多光太郎が随念寺(ずいねんじ)の学校にいったってことがわかって、どんなおてらなのか興味がわいて、いってきた。本多光太郎は岡崎市出身の「鉄鋼のちち」っていわれるひとで、随念寺は、東海道岡崎城下27まがり、伝馬どおり(てんまどおり)からちょこっときたのこやまのなかにあるおてら。
たまたまそとにでてみえたおてらのおくさんから貴重なはなしをきくことができて、また、本堂のつくりのなかに、ほかのおてらじゃあみたことのない、こった造作がほどこしてあることを発見した。
◇ ◇
(ひだり=伝馬どおり伝馬4丁目西交差点からきたに門前どおりをみる) (みぎ=門前町公民館)
参道は、東西にはしる伝馬どおりの伝馬町4丁目西交差点からきたに平坦にのびとって、山門につきあたるまでは門前どおりっていうなまえのついた公道だ。ほいから、山門てまえのみぎがわには門前町公民館まである。山門は門前どおりをつきあたって、いしだんをちょこっとあがったとこにあるだけど、かわらぶきのふつうのつくりで、左右にかわらやねのしろい土塀がつづく。山門をくぐって、さらに参道が平坦にのびる。ほいで、とちゅうからなんだんものいしだんになって、2階だての中門にむかってあがっていく。左右は階段状の土塀。いしがきのうえにのった、かわらやねのついたしろい土塀。いしがきも巨大なもんで、これ、おしろ用のいしがきじゃないかっていうぐらいのもんだ。いや、まるで要塞のいりぐちだ。
(うえ=山門) (したひだり=いしだんの参道、土塀、中門) (中門2階のかね)
中門はかわらぶき、ひらいり。2階はかねつきどうになっとるだけど、1階をくぐりぬけていくとこで、うえをみあげるとかねがみえる。
(うえひだり=本堂と書院) (うえみぎ=おくり)
(したひだり=本堂外観) (したみぎ=本堂内部)
中門をくぐりぬけたとこで、ひらばにでっかい伽藍がみっつみなみむきにたっとる。いちばんひだりが本堂。かわらぶき、ひらいり、向拝(こうはい)つき。いりぐちのとびらがあいとって、あがりこんでおまいり。さて、説明がきで、ここが浄土宗のおてらで、1562年に家康が創建したってことはわかっただけど、本多光太郎がまなんだっていう学校はどのたてもんだったのか。
ちょうどおくさんがでてみえて、はなしをきく。まんなかの伽藍が書院、みぎの伽藍がおくりだって、この書院とおくりが学校だったとのこと。家康の創建ではあるけど、本堂などの伽藍を整備したのは徳川2代将軍秀忠の寄進によるもんだっていう。
書院はかわらぶき、つまいりで、唐破風(からはふ)の向拝がまんかなよりもだいぶみぎにずれてある。おくりはかわらぶき、つまいりで、ちいさな唐破風の向拝がついとるほか、ひだりに、つまめんをみせたはばのひろいでっぱりがある。いや、書院、おくりともでっかい。これが学校だっただ。ところでおくさんによると、「書院とおくりをうって、本堂をのこしただ」とのこと。いや、おもっとったこととちがっとった。「おてらが教育に熱心で、ほいで伽藍の一部を学校にした」っていうわけじゃなかっただ。明治維新で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)になって、おてらの存続さえあぶなかったみたいだ。ましてや、徳川2代将軍のつくったおてらっていうだで、なおさら新政府にめのかたきにされる。ほんな状況のなかで、「書院とおくりをうることで、からくも本堂だけはのこした」ってのが真実だったみたいだ。碧南の西方寺(さいほうじ)も、明治になって太鼓堂が碧南はつの学校になっとるだけど、といあわせてきいたときに、「なんだかしらんけど新政府のもんになっちゃって、学校になった」っていうようなにがにがしいくちぶりだったことをおもいだした。愛知県第二尋常中学校のかり校舎があったっていう勝鬘寺(しょうまんじ)も、おんなじような事情だったにちがいない。
さらにおくさんが、清久と久子のはかのばしょをおしえてくれる。本堂のひだりおく、きゅうないしだんでいしがきづみのがけのうえにあがったとこだ。清久は家康の祖父で、久子は清久のいもうと。ほいで、書院とおくりをうったつづきのはなしになる。「のちにおてらがかいもどしただけど、ぜんぶかいもどしたはずなのに、清久と久子のはかの部分だけ登記がおてらの名義にかわってない」。「ほんなばかなっておもっても、かわってないもんはしょうがない」ってことで、近年になって、また、ほの部分もかいもどしたとのこと。
おくさんのはなしもききおわったとこで、本堂のひがしめんにそりがはいっとることを発見。にしめんもみなみめんもそりがはいってないのに、ひがしめんだけにそりがはいっとる。左右非対称ではある。ほいで、はのじになっとるだけじゃなくて、はちのじにそっとるだ。なんちゅう大工なかせだったことか。
本堂ひだりのでいりぐちから境内をでて、おてらのひだりがわ、こやまの斜面にひろがる墓地にはいって、うえにあがっていく。いちばんうえのほうには、みどりの三重塔。ふりかえると岡崎のまちがみおろせる。墓地は山頂までつづいとって、ほこをぬけたとこにひらばがあるだけど、生活道路もはしっとって、ほっからにしにモダン道路にむかってまっさかさまにおちていくさかまである。まったいらなわがあんじょうにはないけしきだ。
(ひだり=みどりの三重塔のとこから岡崎のまちをのぞむ)
(みぎ=うらがわからみた清康と久子のはかと伽藍群)
本堂ひだりのでいりぐちまでおりたとこで、境内にはいっていくヤクルトレディーのおねえさんとすれちがい。随念寺をあとにする。
〔2020年5月19日訪問〕
(※ 一部の写真だけ前日さつえい)
(さんこう)
- みどりの三重塔 - 随念寺 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/05/26
- はしらが…|いわせあきひこ|フェースブック|2020年5月19日14:16
- はしらがそっとる!
- おてらの本堂のみぎがわのはしらが、八の字(はちのじ)にそっとる。ただハの字(はのじ)にひらいとるだけじゃなくて、微妙に八の字(はちのじ)にそっとるだ。このかどのはしらだけじゃなくて、ひがしめんのはしらぜんぶがそっとって、かべもまどもぜんぶかすかな傾斜がついとる。もちろんみばえのためにこうやってあるだけど、これをやるために、どいだけ材料が余分にいったことか。どいだけてまが余分にかかったことか。傾斜のついとるまどやとを正常に作動させるために、どいだけ精密な造作を要求されたことか。いや~、大工なかせのそりだわ~。
- ちなみに、前后はそりなし。ひだりがわもそりなし。いやいや、ひだりがわにそりがないってことは、左右非対称ってことだ。これもおもしろい。
#随念寺
- まっさかさ~ま~に~♪…|いわせあきひこ|フェースブック|2020年5月19日14:05
- まっさかさ~ま~に~♪
お~ちてでぃざいぁ~♪ - いや、ようこんなまっさかさまなさかつくったもんだ。
岡崎市梅園町の、にしにモダン道路におりていくさか。
- まっさかさ~ま~に~♪
- 妙源寺 - あきひこゆめてつどう|2020/05/12
- 勝鬘寺(しょうまんじ) - あきひこゆめてつどう|2020/04/15
- 西方寺の太鼓堂 - 2020年3月15日 - あきひこゆめてつどう|2020/03/29
- 2020年3月15日、碧南のうお鉄っていうみせでひるごはんをたべたあと、ちかくにある西方寺(さいほうじ)の太鼓堂をみてきた。かわらぶき、しらかべ、こしからしたにくろいいたべいのひらやだてで、いちばんみぎがわにぽこって楼閣がのっとる。城郭ってかんじのたてもんなだけど、これが碧南さいしょの学校「新民序」だったっていう。まどもないこんなたてもんが学校だったってへんだなっておもって、おてらにといあわせたら、「たしかにみちに面したがわにまどはないけど、はんたいがわにはまどもあって、まちがいなくこれが学校だった。明治維新になって、藩からたのまれてこのたてもんを学校にした」ってことだった。ほー。さらに、この新民序についての資料がないか藤井達吉現代美術館にといあわせたら、『碧南市史料第65集』「新民序塾書」に記載があるっていう。この本がおいてあるのは、北新川にある碧南市民図書館。また、いってみにゃ。
- 随念寺 - Wikipedia
- 1562年、徳川家康が大樹寺十五世黁誉魯聞を開山に創立した。
- 尾張を攻略しようと守山に陣を構えとった松平清康は1535年12月5日、家臣阿部正豊に斬られ即死した(当該事件を「森山崩れ」という)。家康は祖父清康の遺骸をこの地で荼毘に付し、墓塔を建てて善徳院墓塔と称したとされるが、家康が生まれたのは清康の死の7年后である。
- また、家康の生母於大と生別以来養育してきた清康の妹・久子(於久)が1561年に岡崎城中で没し、その墓が遺言によって清康の墓とならんで建てられた。随念寺の名は久子(於久)の法名(随念院)に由来するとされる。彼女は竹千代(家康)が今川氏の人質となっていた時代には安祥松平家の中で唯一岡崎にいた人物であり、竹千代(家康)に代わって松平氏当主の権限の一部を代行していたとする説を唱える研究者もおるほどの大きな存在であった。
- 慶長・元和期に入ると、松平氏ゆかりの寺社は家康の先祖に対する権威付けにより寺格が高められた。1610年に清康の妹・久子(於久)の50年忌法要が行われ、追善供養のため大乗経を一日で写経する頓写が催された。1612年には庫裏が、1619年には岡崎の大工坂田弥右衛門によって本堂が再建された。
- 明治時代、随念寺は様々な学校の校舎として使われた。境内の庫裡と書院は当時の姿を残すものとして貴重な遺構である。
- 隨念寺|岡崎の観光スポット|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト
- 本多光太郎 - Wikipedia
- 本多光太郎資料館|東公園|特集|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト