2022年8月11日、もくようび、はたび。中山道は鳥居本宿をあるいてきた。こないだのきのもとのたびで、きのもとじゅくをとおる北国街道が、鳥居本宿で中山道からわかれてきたみちだってことをしって、ほの鳥居本宿がどんなとこかっておもっていってきた。
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すぐに近江鉄道にのりかえ。米原8時35分の近江八幡いきふつうにのる。電車は、だいだいいろの2両編成で、側面とヘッドマークにたぬきのえがかいてある。車両番号は804と1804。
座席はあおいろのベンチシートで、車両間のとびらはあけっぱなし。
みなみにむかってしゅっぱつ。みぎに東海道線の線路群。みえんけど、ひだりに北国街道。
東海道線がぐいーんってみぎにゆみなって、はなれていく。ほのむこうに、しろいたっかい塔。
矢倉川(やぐらがわ)の支流をわたる。
8時39分、フジテック前にとうちゃく。無人駅なのに、りっぱな駅舎ときれいな便所があるのにびっくり。かいさつはわくだけ。ちょうどえきそうじのおばさんがおって、駅名になっとるフジテックがどこにあるのかきいてみる。駅舎とはんたい方向、線路と矢倉川(やぐらがわ)をわたっていったにしのほうにあるっていう。あー、あのしろいたっかい塔のあるとこか。
えきまえ、いちだんたっかいとこを線路と平行に南北にはしるのが国道8号線で、これが北国街道だ。くるまのがんがんいきかう北国街道をみなみにあるく。
すすんで、ひだりやまがわに鋭角にまがってちょこっといったとこに、「中山道←」のたてふだ。ここで中山道と合流するだ。摺針とうげ(すりはりとうげ)からおりてきた中山道に、ここで北国街道が合流する。
まあちょこっとみなみにいったとこに、下矢倉(しもやぐら)のみちしるべ。みなみからみて、「左北国米原きの本道|右中山道摺針番場」ってかいてある。
国道8号線で矢倉川(やぐらがわ)をみなみにわたる。
わたってすぐに、ひだり30度にはいっていく。国道8号線からはなれて中山道はみなみにいく。ひだりに矢倉川をみていく。
みちがみぎにゆみなっていくとこで、左右に人家があらわれる。このへんから鳥居本宿にはいっただ。
すすんで、十字路にタクシーのりば。愛のりタクシーとりいもとの上矢倉(かみやぐら)のりば。下矢倉にたいする上矢倉もあるだ。この十字路からみぎに、国道8号線鳥居本町北交差点もみえる。
どんどんまちになっていって、みぎにまちやもあらわれる。
みぎうえに、複雑にいりくんだ、りっぱなやね群。門のとこに、「明治天皇鳥居本御小休所」のいしぶみ。なるほど、天皇がとまるだけあってこんなりっぱなやねのたてもんなだ。きのもとにも明治天皇はとまっただけど、鳥居本にもとまっただ。
つづいて、有川薬局。明治天皇鳥居本御小休所と有川薬局のふたつでやね群は構成されとる。ほいで、有川薬局がいまもみせをやっとることにびっくり。
有川薬局で中山道はひだりにくのる。このくのっとるとこにますがたがあったっていう。ますがたからみなみにあるきかけたとこで、自転車にのったおばさんがにこにこしながら「こんにちわ」っていって、おれをおいこしていく。さっきのえきそうじのおばさんだ。うれしいな。
すすんで、みぎにまちや。ここでまた中学生男子がすれちがいに、こんにちわっていってくれる。きもちいい。
みぎに、つまいりのまちやで旧鳥(きゅうとり)集会所。説明がきに、「ここがはたご米屋だって、井伊直弼(いいなおすけ)ゆかりのえつけし自然斎(じねんさい)がすんどった」ってかいてある。ほいから、ここは、愛のりタクシーとりいもとの旧鳥のりばにもなっとる。
みぎにくらふうのまちやで、デーサービス鈴の音。
みぎに、かっぱどころ木綿屋。
ひだりに本陣あと。本陣あととはおもえん、ボーリズ建築の洋館がたっとる。これもすてきだ。説明がきに、「1603年、となりの小野から鳥居本にしゅくばがうつった。本陣は1937年、ボーリズの設計により和風洋館にたてかえられた」ってかいてある。地図をみてみると、鳥居本からちょこっとみなみにいったとこに、小野ってとこがある。
本陣あとのむかいがわ、みぎT字のみちが国道8号線につきあたったとこに、鳥居本のえきがみえる。あっかいマンサードやねがとくちょうてきな駅舎で、ちょうどみなみに電車がいくとこだ。
みぎT字をすぎたすぐひだりに、高橋家わき本陣、とんやば。ほのむかいにこうさつば。このT字路が鳥居本宿の中心だ。
またみなみにすすんで、みぎにまちやが2軒。りょうほう宇治原宅なだけど、2軒めに「中山道鳥居本宿|〇十|十内あと|ふるさと鳥居本」ってふだがかかっとる。十内ってのはやごうか。
ひだりに、かっぱどころ松屋。また、かっぱどころだ。説明がきに、「鳥居本のかっぱの製造は、1970年代におわる。戦后はなわづくりに転業」ってかいてある。おんなじ中山道で加納宿はかさが名産なだけど、鳥居本宿はかっぱが名産だっただ。
すすんで、十字路の西南、まちやのかどに木造常夜灯。この十字路からひだりおくに鳥居本小学校がみえる。
ちょこっとすすんで、みぎに鳥居本宿交流館さんあか。無人ではなしをきくこともできず。便所だけかりる。
みぎおくに飛騨運輸物流基地。
ひだりに彦根警察署鳥居本警察官駐在所。みぎ、鉄板倉庫のなかに長池地蔵尊。
ひだりに大村屋かっぱ、成宮家。
みぎに住長あと、魚浜家。
みぎに専宗寺(せんしゅうじ)。おまいりして、えんがわにすわって、街道をながめる。むこうはやま。
ふたたびみなみにあるいて、みぎ、久徳屋あと、西川医院。
ひだりに、そばどころ百百百百。なんてよむかわからんだけど、人気のみせだ。まんだ10時半で開店まえなだけど、くるまでやってきたひとたちが、みせのいりぐちの予約簿になまえをかいていく。こころひかれたけど、みおくり。
みぎT字の西南かどに、彦根みちのみちしるべ。「右彦根道|左中山道京いせ」ってかいてある。みちしるべのとなりに説明がきがあって、よんでみる。「江戸時代の主要街道にはおおくのみちしるべがもうけられた。彦根みちは中山道と彦根城下をつなぐみちで、彦根藩2代藩主の時代に整備された。きりとおしみちあるいは朝鮮人街道ってよばれただけど、ほれ以前は、佐和山城の太鼓丸のほりきりを経由しておおてがわと彦根がわをつなぐ城内道だって、一般のひとの通行はなかった」とのこと。なるほど、佐和山城の時代、鳥居本宿のがわがおおてだっただ。
これをみて、彦根にいってみることにする。彦根みちをあるいていくのはやめて、鳥居本のえきから電車でいくことにする。
中山道をきたにもどって、鳥居本のえきにとうちゃく。あっかいマンサードやねもすてきだけど、アーチつきのしろい洋館まちあいしつもすてきだ。
構内ふみきりをわたって、しましきのりばにあがる。ほか、ひがしがわにかためんのりばもあるだけど、つかわれとらん。
鳥居本11時1分の米原いきふつうがはいってきて、のる。え、彦根にいくじゃなかったのかって。いや、電車は1時間に1本しかなくて、彦根方面にいく電車はちょっとまえにでちゃったとこなだ。ほんならこの電車で米原までいって、本数のおおい東海道線にのりかえて彦根にいったほうがはやいにちがいないだ。電車は、だいだいいろの2両編成で、車両番号は1802と802。
矢倉川(やぐらがわ)をわたる。このすぐみぎに下矢倉のみちしるべ。
みぎかためんのりばのフジテック前に停車。きょう2回めのフジテック前。
11時7分、米原は1番のりばにとうちゃく。
東海道線にのりかえ。米原は3番のりばから、11時30分の加古川いきふつうにのる。いや、あんまりのりつぎはようなかった。電車は8両編成で、先頭クハ222-2013の223系ステンレス電車。
みぎにゆみなって近江鉄道とはなれて、新幹線をくぐる。
矢倉川鉄橋をわたる。近江鉄道の矢倉川鉄橋とちがって、がっちりしたトラス橋だ。
11時35分、彦根は2番のりばにとうちゃく。
まちなかをにしにあるいて、彦根城なかぼりばた、彦根キャッスルリゾートアンドスパんなかの近江ダイニング橘菖(きっしょう)ってみせでひるめし。ステーキ重を注文。ごちそうさまでした。
はらごしらえができたとこで、うちぼりのなか、彦根城博物館にはいる。
表御殿能舞台。
おもてむきとおくむきをつなぐたかろうか。表御殿のなかの公的な部分がおもてむきで、藩主の私的な部分がおくむき。
おくむきにはいっていって、御亭(おちん)。ここで藩主がゆっくりくつろぐ。
表御殿の平面図。彦根みちにかんする資料がみたかっただけど、ここは、彦根城表御殿(おもてごてん)のたてもんの再現だった。
えきへのかえりみち、うちぼりをわたるてまえ、彦根市開国記念館にたちより。佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)のたてもんのなかが資料館になっとるだ。
あれこれ展示資料をみたさいごに、彦根みちにかんする資料を発見。鳥居本宿から彦根城下まで、彦根みちの経路がくわしくかいてある。いや、はいってみてよかった。いつのことになるかわからんけど、また、佐和山城にいくときのさんこうにするよ。
えきにもどって、かえりの電車にのる。
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