ちょこっとづつあるいてきた佐屋路ひざくりげもこんかいがさいご。前回のつづきの埋田おいわけから西南方向に終着点の佐屋三里のわたしまであるく。埋田おいわけまでにしにのびてきた佐屋路が、ほのままいきゃあ津島のまちの中心部にいけるとこをいかんで、目前で回避するようにひだりにまがっていく。
埋田(うめだ) → 愛宕(あたご) → 日置(へき) → 柚木(ゆぎ) → 内佐屋(うちざや) → 須依(すえ) → 佐屋(さや) |
[埋田おいわけから佐屋三里のわたしまでの地図] [佐屋路と周辺の主要街道] |
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名鉄バスセンターからのったバスを津島市役所前バス停でおりて、埋田おいわけ(うめだおいわけ)に移動。
ひがしからにしにきた佐屋路はここ埋田おいわけで左折して西南方向にいくだけどみちがない。あたらしいまちわりにうもれて廃道になっちゃっとるだ。代替経路として津島市民病院にしの南北のとおりをみなみにいく。
ひだりコメダのへんで廃道区間の佐屋路をひだりななめによこぎる。
ひだりカーテンひろばをすぎたとこのみぎT字を右折してにしにいく。
すぐに愛宕神社西北かどのひだりT字にとうちゃく。こっから佐屋路が復活する。佐屋路はこっから西南方向にいく。
愛宕神社の境内にはいってみる。しろぬりがめずらしい神社だ。拝殿はしろいコンクリートばしら、つまいり、かわらぶき、前后がふきはなち。さらにふきはなちのわたりろうかからおくにつながって、いしがきづみのうえにおおいでん。おおいでんのしたの本殿は神明づくり、銅板ぶき、すいへいちぎかつおぎつきのやしろ。
愛宕神社から西南方向にいく。左右は住宅街。
南北のとおりを変則的にみぎななめによこぎる。むこうのひだりかどにマルエスかばん。
まちがえてふたまたをひだりにはいっていっちゃって、ひだりおく、南北のとおりのむこうがわにりっぱな神社がみえていってみる。神社のなまえは日置八幡宮(へきはちまんぐう)。拝殿はひらいり銅板ぶき唐破風の向拝つき。
わたりでんからおくにつながって本殿。ながれづくり、銅板ぶき、垂直ちぎかつおぎつきのこれまたりっぱなもんだ。垂直ちぎがそっとるのにもおどろく。ちぎってふつうはまっすぐなもんなのに、これはうえにそっとる。
ふたまたにもどって、こんどはまちがえんでみぎにはいって佐屋路を西南方向にただしくいく。
みちがひだりにゆみなっていくとこで、電車のおとがきこえてくる。みぎおくにかすかに電車がみえる。尾西線の電車がみなみむきに日比野のえきにとまっただ。
すすんでみぎT字をいくとこで、ここを右折してにしにいく道路のさきのふみきりをきたいきにあっかい電車がいくのがみえる。
みぎ佐屋北保育園のてまえのへんで佐屋路は右折してにしにいくだけど、ほのみちはない。こっからにしにいくみちはあるだけど角度がちがう。やっぱりあたらしいたんぼわりにうもれて廃道になっちゃっとるだ。代替経路として直進してつきあたりT字を右折してにしにいく。
市街地はおわって、左右はしっかりたんぼ地帯。
寒風ふきすさぶなかをにしにいくとこで、みぎたんぼんなかにまりって喫茶店を発見。いや、ありがたい。みせにはいって、この席にすわらあかな~っておもっとるおれをきにもとめずにとっととすわっていく老夫婦。きをとりなおしてべつの席にすわってモーニングセットを注文。コーヒーにパン、サラダ、ゆでたまごで元気をとりもどす。
もどって、また、たんぼんなかをにしにいって、廃道区間の佐屋路をみぎななめによこぎる。いや、ほれにしてもいなかだ。
尾西線ふみきりをわたる。こんなにいなかなのに線路が複線でびっくり。1898年に尾西鉄道が建設したもんで、名鉄路線網のなかでいちばんふるい路線だ。尾西鉄道の栄光ここにありってかんじか。
- いったんよりみち。ふみきりをにしにわたって右折。きたにいって柚木(ゆぎ)のごうは由乃伎神社(ゆのきじんじゃ)にとうちゃく。祭神はあまてらすおおみかみから5代めのひこゆきのみこと(日子湯支命)っていう。いや、はじめてきくかみさまだ。3代目のあめのほあかりのみことは真清田神社の祭神。
- あまてらすおおみかみ → あめのおしほみみのみこと → あめのほあかりのみこと → うましまぢのみこと → ひこゆきのみこと
おんなじ境内のひだりおくに大池社。説明がきがあって、「1728年のおおあめで佐屋川東岸堤防がいまの津島高校のへんできれて1.6ヘクタールのおおいけができた。戦前、食糧増産のためにうめたてるにあたって、しろうまの霊をしずめる儀式をやった。ほの1年あとに大池社をたてた」ってかいてある。いや、佐屋川ってかわがまちがいなくあっただ。
もどって、また、つべたいかぜのふくたんぼんなかをにしにいって、内佐屋(うちざや)交差点を左折。南北のとおりをみなみにいく。
ちょこっとみなみにいったとこで、ひだりみちばたに佐屋海道あとのいしぶみ。佐屋北保育園のとこからにしにきた佐屋路が左折してみなみにいくとこだ。代替経路はここまでで、こっからまた佐屋路が復活する。
にしに養老山脈。西北にゆきの伊吹山。さびー! 左右たんぼんなか、また、南北のとおりをみなみにいく。
ななし信号交差点からまちにはいる。この交差点のかどに「えがおであいさつ|須依町(すえちょう)自治会」ってかんばん。
住宅街をすすんで、ひだりおくにおやしき。
みぎおくにはなれて佐屋西小学校。また、ひだりおくにおやしき。
十字路を直進。
みぎに鈴木家住宅。
どんどんまちんできて、みぎに浄法寺(じょうほうじ)。ひだり45度にヨシヅヤがみえる。
みぎに天神社。
須依(すえ)交差点を右折。まんだ須依のうちだっただ。
にしにいく。いや、にしむきになるとさぶいこと。
とおりはしっかり街道のふんいきがある。どのへんがさかいなのかはっきりわからんけど、このへんから佐屋宿にはいったのか。
十字路の西南かどにくいなづかのみちしるべ。「くひな塚|是より南へ一丁」ってかいてある。
佐屋路からはずれてみなみにいって、みぎにくいなづか。芭蕉が佐屋の門人宅に滞在したときに「水鶏(くいな)啼くと人のいへばや佐屋泊り」って一句をつくったとのこと。
むかいに八幡社。このあたりのどかなふんいきだ。
佐屋路にもどってにしにすすんで、ひだりにスバルレックスのかんばん。どうみてもくるまをうっとるみせじゃないなあっておもったら磯部自転車商会っていう自転車のみせ。昭和なみせがなつかしい。
あきちのつぎにかわらぶきいたばりのもんぺい。どんな由緒あるたてもんがあったのか。
すすんでひだりに佐屋舟場道のみちしるべ。もともとべつのばしょにあったらしいだけど、いよいよ佐屋三里のわたしにちかづいたってかんじだ。
つづいてきこくのいけがきの説明がき。「江戸時代、このあたりは佐屋宿舟番所のまえで、近江屋ってはたごがあった。ブロック塀のうえのきこくのいけがきは尾張名所図会にもえがかれとるもんで、当時のすがたをいまにつたえる貴重なもんだ」ってかいてある。尾張名所図会をみてみると、このすぐにしを南北に佐屋川がながれてふねもうかんどる。
説明がきのうしろに、尾張名所図会にかいてあるとおりのきこくのいけがき。ただし、佐屋川はなくてこのすぐにしはななし信号交差点。
きこくのいけがきのむかいに佐屋代官所あと。いしぶみにつぎのようにかいてある。「わが佐屋は江戸時代からしゅくばまちとして天下にしられ、海部郡(あまぐん)の中心として民政と治安の任務をはたしてきた。さらに幕末2度の将軍上洛や明治天皇の巡幸にもやくめをはたした。ところが全国の交通の大動脈もかわって佐屋川もなくなったいま、佐屋にはいきおいのさかんなときをかたるもんもなく、ほのことをしるひともおらん。ここにわれわれはむかしの栄光をいしにきざんでながく后世にかたりつぐ」。いや、佐屋愛にあふれた文章だ。
ななし交差点の西南かどに佐屋三里のわたし。このさきは佐屋川をくだって桑名宿につながる。
ななし交差点からにしにゆる~く地形がひくくなっていって、佐屋交差点で南北の基幹道路とまじわる。ちかくのあきちをみるとすなじがむきだしになっとる。佐屋川だったとこに南北の基幹道路がとおっとるだ。
佐屋交差点からまあちょっとにしにいって、南北にながれる海部幹線水路とまじわる。水路は2本あってひがしがわの水路がたっかい位置をながれとってにしがわの水路がひっくい位置をながれとる。佐屋川がこの海部幹線水路にかわったのかどうかはわからん。はしげたに「野方サイホン(のかたさいほん)」の銘板。水路がはしのしたをながれるのに、いちだんさがってながれるようになっとるだ。
海部幹線水路からさらににしにいくと地形がたかくなっていく。佐屋川の対岸まできただ。
もどって佐屋交差点のちょこっときたにみつけた鈴家食堂でひるめし。ちょっとドライブインっぽい昭和なみせで、ざしき席のほうにあがっててんぷらうどんを注文。てんぷらのえびがしっかりしとることに満足。くっとるあいだにくつがそろえてあったことに感激。ひがしに佐屋駅まであるいてかえりの電車にのる。
〔2023年2月ここのか、もくようび、平日〕
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【由乃伎神社(ゆのきじんじゃ)境内の大池社】
【佐屋海道あとのいしぶみ】
【佐屋舟場道のみちしるべ】
【佐屋宿のきこくのいけがき】
【佐屋代官所あと】