2021年11月11日、美濃路を萩原宿(はぎわらじゅく)から起宿(おこしじゅく)まであるいた。ついふつかまえにはじめて萩原宿をおとずれたとこで、こんどはほっからひざくりげ道中で起宿までいってきた。現地までの電車道中とあわせて、以下にたびのようすを紹介する。
◇ ◇
電車道中
6時49分、あっかい電車でふるいをしゅっぱつ。あんじょう平野をきたにすすむ。
しんあんじょうは3番のりばに停車。こっから名古屋本線にのりいれていくだけど、まえに2両増結するあいだまちあい。
むかいの4番のりばにはいってきたぎんいろ電車がさきにでていくけど、みおくり。ほのあと、しゅっぱつ。急行からふつうにかくさげになって、西三河平野をにしにすすむ。
牛田に停車。こんなにいっぱいのってくるのか。
こおろぎ特急とすれちがい。特急車両を急行運用しとるやつだ。
三河線をのりこえておりていくとこで、また、こおろぎ特急とすれちがい。これはほんもんの特急。
7時6分、知立は5番のりばにとうちゃく。いったんかいさつをでて、コンビニでパンとのみもん、たばこをかう。あさめしをくってなかっただ。
かいさつをはいりなおして、7時22分、こおろぎ特急で知立をしゅっぱつ。座席は特別車2号車6C。ひだり通路がわはしらまえ。とりあえず、車内でパンをくえるふんいきはない。電車は快速特急だけど、ゆっくりはしる。あさの通勤時間帯は、電車も渋滞しとるだ。
神宮前で、となり6Dまどがわのおじさんがおりたあとに移動。やっぱりまどがわがいい。おんなじ2号車にしりあいがのっとるのをかくにん。豊橋から名古屋にかよっとるっておもっただけど、やっぱり着席通勤がいいだ。まえにもみかけた。
金山に停車。はんぶんぐらいかほれ以上おりる。
トンネルにもぐって、名古屋に停車。みぎに美濃路名古屋宿。ここでみんなおりて、やっとパンがくえる。
地上にあがって栄生(さこう)をすぎたとこで、「このさきカーブがあります♪ 列車のゆれにご注意ください♪」の車内放送。ひだり東海道線をいく特急しらさぎがぬいていく。
くねくね区間のとちゅう、東枇杷島をほとんどとまりそうな速度で通過。っておもったら、ほんとにとまった。ちょっとして、しゅっぱつ。
須ケ口(すかぐち)を通過。特急だと特別停車するやつもあるだけど、快速特急はさすがにとまらんか。
新清洲を通過。このへんでくねくね区間もおわる。みぎに美濃路清洲宿。
濃尾平野をきもちよくはしっていく。
高架をあがって、ひだり車窓に養老のやまやま。
8時3分、一宮は2番のりばにとうちゃく。
8時12分、むかいの1番のりばにはいってきたあっかい電車で一宮をしゅっぱつ。こっからひだりに反転分岐するかたちで、尾西線(びさいせん)を西南方向にすすむ。乗客は、たちきゃく1わり。はんぶんちかくが高校生。一宮っていう中心から郊外にいく電車ってことで、ぜんぜんこんでない。
養老のやまやまにむかって単線の高架をすすんだあと、地平におりて観音寺(かんのんじ)に停車。のりおりはちょこっと。
苅安賀(かりやすか)ではんたい電車といきちがい。のりおりはちょこっと。
みぎ線路ぞいをいく、自転車の高校生らをおいこしていく。
二子(ふたご)に停車。高校生はおりて、乗客は座席に7わりにへる。
8時20分、萩原にとうちゃく。けっこうなんにんかおりる。はんたいのりばにも、電車まちのひとがなんにんかおる。
構内ふみきりをわたって、かいさつをでる。
ひざくりげ道中
萩原の駅舎をでて、ひざくりげ。
えきまえどおりからきたにわたって、萩原下町(はぎわらしもまち)交差点から美濃路をにしにすすむ。ひだりにシノザキ食料品店。みぎのしろくろの2階だて洋館は、もと銀行のたてもん。
正瑞寺(しょうずいじ)のとこからみぎかねんてにすすんで、みぎに萩原宿本陣あとのいしぶみ。
ちいさな十字路を左折。すすんで日光川にかかる萩原橋をわたると、しゅくばまちはおわり。
吉藤にはいって美濃路がみぎにかねんてになるとこのうちがわ、あきちになっとるとこに市川房枝生家あと。
おとついもよんだ説明がきをあらためてよんでみる。「后年、起の高等小学校にかようのに、まつなみきの美濃路をとおっていったり、伊吹おろしがさぶかったりしたことを回想しとる。また、1年生のころの担任岩田よね先生が房枝のあこがれのまとだった」とのこと。おとついこの部分をよんで、市川房枝があるいたとおりに萩原宿から起宿まで美濃路をあるいてみいっておもったしだいだ。市川房枝は婦人運動家。おさないころにみとった「ちちの暴力にたえるははのすがた」がほの原点になっとる。
美濃路をきたにちょこっとすすんだとこで、まあいっかい日光川のひがしにいくことにする。橋上橋(はしがみばし)で日光川をわたるとこで、東北方向に橋本毛織のえんとつがあるのをかくにん。あのへんに天神のわたしがあるだ。
橋上橋をわたってひがしにすすんで、十字路を左折。萩原宿のなかでちいさな十字路を左折して萩原橋にいっただけど、ほのちいさな十字路を左折せんできたにまっすぐにきたとこがこの十字路になる。
十字路からちょこっときたにいったとこに、左右に常夜灯。このみち美濃路じゃないのに、やけにりっぱな常夜灯だ。
すすんでみぎに萩原整毛のこうば。のこぎりやねじゃなくて、さんかくやねのこうば。またみぎに、ルアトリエトオル。
名神高速をくぐってすぐの信号交差点東北かどにみつけた、喫茶カレンにはいっていっぷく。喫煙可能店がうれしい。昭和歌謡のながれるなか、おばあさんらが談笑。モーニングコーヒーについたうでたまごがつるってむけて、うれしい。ところで、みせのひとに天神のわたしのことをきいてみると、しらんっていう。ただ、日光川はむかしはまっとずっとかわはばがひろかって、このみせのひがしでも、ほるとみずがいっぱいだったとのこと。いや、貴重なはなしがきけた。ほいから、ここがなんていう地名なのかきいてみると、萩原だっていう。萩原宿からはずれとるで市川房枝生家におなじく吉藤かっておもっただけど、ここも萩原なだ。コーヒーものみおえておちゃもでてくる。いいいっぷくができた。
きたにすすんで、ひだりに名鉄運輸の物流基地。ほのおくが橋本毛織。
みちがみぎクランクするとこのつきあたりに天神社のとりいがあって、とりいのひだりてまえに、天神のわたしあとのいしぶみ。とりいは名神高速をくぐったとこで、まあはいみえとったもんだ。文章をよんでびっくり。いまの日光川が木曽川の本流だったっていう。なるほど、喫茶カレンのひがしでもほるとみずがいっぱいなわけだ。ほいで、この天神社と対岸尾西市の天神人社のあいだにあった、美濃路のわたしが天神のわたしだった。ほれが1586年の大洪水で木曽川の本流が起のほうにうつって、わたしもほっちにうつったとのこと。ちなみに対岸尾西市ってかいてあるけど、いまは合併して一宮市の一部になっとる。
とりいをくぐっておくにすすんで、天神社におまいり。本殿は、銅板ぶき、水平ちぎかつおぎつきの、独立したちいさな神明づくり。
さらにほのままおくにぬけてひだりクランクして、ひだりにアイコクアルファのこうば。十字路を左折。こうばのかべぞいににしにすすむ。
日光川の堤防にでて、対岸をみる。むかしはこれが木曽川だって、わたしぶねがあっただ。
堤防ぞいをみなみにすすむ。ひだりにイワタフーズのこうば。名神高速の直前、風晴橋(かざはりばし)をにしにわたる。かぜがつよいでこのなまえがついたのか。地図をみると風張橋ってかいてあるし、はしのにしがわにも風張(かざはり)っていう地名があるで、ひょっとして銘板にまちがえてかいてあるのかもしれん。
風張橋からにしにちょこっといって、信号交差点を右折。美濃路にもどって、きたにはいっていく。
風張橋をとおってきたとこだけど、きょうはかぜもおだやかであっついぐらいだ。
左右は住宅街。ひだりおくに養老のやまやま。みぎにサイクルハウスキマタ。中央線のない美濃路らしいとおりだ。
みぎに、西萩原区新町の広報掲示板。おんなじ日光川西岸でも、市川房枝生家は吉藤だっただけど、ここは萩原なのか。日光川をはさんで萩原の区域があるのか。さいしょはほうおもったけど、いや、ちがう。おんなじ萩原だったらかたや一宮市、かたや尾西市なんていうふうにわかれるはずはなかった。東岸の萩原宿にあやかって西萩原をなのったにちがいない。
広報掲示板のとこのひだりT字をはいっていって、寂雲寺(じゃくうんじ)におまいり。いかにも真宗らしいおてらだ。
美濃路にもどってきたにすすんで、みちがひだりにゆみなっていくとこで、みぎにおいしい中華そばふじや。
ふじやをみぎまきにはいりこんだとこに天神神社があって、おまいり。東岸は天神社だったけど、こっちは天神神社。へんなきもするけど、まあこいで区別がつくってわけだ。拝殿は、つまいりふきはなち。ほのおく、まるいしづみのうえ、かんたんな門のなかに本殿。銅板ぶき、水平ちぎかつおぎつき。
天神神社からちょこっとおく、たんぼにつきあたるてまえひだりに、天神のわたしあとのいしぶみ。東岸のいしぶみとおんなじようなことがかいてあるだけど、このわたしが廃止されてかわりにいまの位置に萩原橋ができたことがはっきりかいてある。天神神社と天神社とのきょりは480メートル。たんぼをへだてたむこうに日光川がながれとって、さらにほのむこうに橋本毛織のえんとつがみえる。こんなきょりをわたしぶねでいききしとったのか。萩原宿からきたにいったとこの常夜灯のひみつがわかった。美濃路じゃないのにやけにりっぱな、、、っておもっただけど、天神のわたしの時代にはあっこが美濃路だっただ。萩原宿からまっすぐきたにいって、この天神のわたしにつながる。
ふたたびふじやから美濃路をあるく。
みちがひだりにゆみなりおえて、進行方向がにしむきになる。ひだりはこれまでどおり住宅街がつづいてきとるけど、みぎにたんぼがあらわれる。
またみちがちょこっとみぎにゆみなったあと、西萩原交差点で南北のクルマどおりをよこぎる。この交差点の南北に、名鉄バス西萩原バス停があるのをかくにん。一宮のえきから中野のわたしにいくバスが、ここをとおっとるだ。このあたりが西萩原の中心か。
南北のクルマどおりをよこぎってから中央線のあるみちになって、左右は住宅街。市川房枝が起の高等小学校にかよっとった当時にあったっていう、まつなみきはここまでどこにもない。
みぎだけにはたけやたんぼがあらわれて、また左右住宅街になる。
郵便配達車をみかけたとこで、iバス(あいばす)西浦公民館バス停を発見。iバスってのは一宮市のコミュニティーバス。おとついは萩原のえきまえどおりをはしっとるiバスをみかけただけど、ここもはしっとるだ。おんなじ路線なのかどうかはわからん。
みぎおくに、たんぼんなかまではいっていったとこに八幡神社があるのをかくにん。
みちがみぎにゆみなって、進行方向が西北方向になる。
ひだりK字の信号交差点を直進。ひだりT字じゃなくてひだりK字だ。この交差点からひだり鋭角とひだり鈍角にみちがのびとる。
左右住宅街。すすんで、みぎに正一位秋葉神社。正一位(しょういちい)ってのは、いちばんたかい官位だ。みぎにとんかつのみせ。ちょっとはやいけどひるめしにするかっておもったら、半からですっていわれてあきらめる。まんだ11時をちょこっとすぎたとこだった。
ひだりおくに4階だての尾西記念病院がみえる。
みぎおくにはのこぎりやねがみえる。
さて、変則的な交差点にきた。十字路にくわえて、直進方向はみぎにまあ1本みちがある。みぎのみちは水路の上部利用ってかんじのみちで、ひだりのみちをえらぶ。ここまであった中央線はなくなる。いりぐちみぎにバラ理容院。ひだりに博覧堂薬局。喫茶ツル。博覧堂のきいろいのっぼのたてもんがようめだつ。
博覧堂をひだりにまわりこんでいったみぎに八百大商店。さらにおくに尾西記念病院があるのをかくにん。
美濃路にもどって、みぎにコーヒー白蘭。ひだりにホワイト急便。尾西富田(びさいとみだ)郵便局。いや、このあたりちょっとにぎやかだな。病院のもんぜんまちってかんじか。
ちょこっとすすんで、左右に富田一里塚。みぎ、ひがしづかに説明がきがあって、「旧美濃路の一里塚にしてみちの東西りょうがわにあり、りょうつかは各ひとしく径約35尺高6尺にしてつかうえにはそれぞれえのきひとかぶあり」ってかいてある。
にしづかは道路にめんして石柱のいしぶみが1本。つかのうえにあるのがえのきのきか。むかってみぎのしきちおくに説明がき。美濃路にある一里塚でりょうがわにあるのはここだけとのこと。
ちょこっとすすんで、鈍角のひだりT字に、駒塚道のみちしるべ。正面に「左駒塚道|舩渡5丁」、ひだりめんに「1867年」ってかいてある。こっからひだりにはいっていって、木曽川のわたしまで500メートルなだ。
ほじゃっておもっていってみるけど、左右は住宅街で、これをぬけて堤防がみえるまできょりがありそうで、ひきかえす。
ふたたび美濃路をいく。
中央線はないけど、けっこうなクルマのとおりがある。左右は住宅街。ひだりにのこぎりやね。
iバス富田保育園東バス停。
みぎにひと宅地分へだてて平行しとる、水路の上部利用ってかんじのみちのみぎに中日新聞起南専売所浅野新聞店。起の区域にはいっただ。
富田保育園東交差点を直進。依然として中央線はなく、左右は住宅街。
けっきょく食堂はみあたらんくて、まあはい12時になっちゃった。
すすんでみぎに、おおきなおやしきのりっぱな塀。
まちがちかづいたふんいきがする。
尾西庁舎いきiバスとすれちがい。尾西庁舎ってのは旧尾西市役所のことだ。方向がちがうけど、みなみまわりにまわっていくだ。iバスのうしろに、いまどきにはめずらしい木造総2階の洋館。翌桧塾(あすなろじゅく)富田教室ってかんばんがでとる。
すすんで、みぎにのこぎりやね。ひだりにカラオケ。
すすんで、ひだりにiバスの富田北バス停。美容室キャッツ。三州陶器がわらの小塚。いや、まあ起宿にはいったっておもっとっただけど、まんだ富田なのか。
みぎに、のこぎりやねのたてもんをつかった K-CRAFT。なんのみせかわからん。
ひだりうしろからきたみちと合流。この交差点にかかる陸橋に一宮市富田の文字。この陸橋には、はっきりみおぼえがある。このさきは、まえに起宿にきたときにあるいた。きたのほうからみなみにあるいてきて、この陸橋できたにひきかえしただ。
いや、萩原宿から起宿まで美濃路をあるいてきただけど、やなみのとぎれがないことにびっくり。まっとたんぼんなかをえんえんとあるくのかっておもっとっただけに、意外だった。まつなみきなんかついになかった。まんだこの時期だでだっておもうけど、伊吹おろしもなかった。
すすんで、ひだり、たてもんのすきまからおくに木曽川の堤防もみえる。
12時15分、信号交差点東南かどのシーズン珈琲ってみせにはいって、てりやきランチを注文。料理はとりにく、ぶたにくのてりやきとアスパラベーコンまき。こいで650円って、やっすーっ! ごちそうさまでした。
また、美濃路をきたにすすんで、ひだりに尾西歴史民俗資料館と林家住宅。資料館に「天下の十字路」っていう展覧会をみにきただけど、さきに林家住宅にはいってみる。起宿の脇本陣だったたてもんだ。
たてみ2畳だけの化粧室にはいって、おんなみたいに鏡台のまえにすわってみる。どういうわけかきもちがおちつく。
えんがわおくの洗面。
玄関どまみぎにある帳場(ちょうば)。
にわのみえるざしき。
ろうかのつきあたり。
あかいじゅうたんのうらざしき。いや、にほん建築ってほんとにすてきだ。
さて、資料館にはいる。
起5か村の地図。まえにきたときにもみた地図だけど、小信中島(このぶなかしま)、東五城(ひがしいつしろ)、西五城(にしいつしろ)、富田のよっつが起に加宿して起宿がなりたっとったことがわかるほか、きょう美濃路をとおってきた萩原村や、明地村(めいちむら)、西萩原、蓮池っていう地名もみえる。ほいから、鉄道は東海道線のほかには尾西線があるだけっていうのもおもしろい。のちにできる起線や名古屋本線はまんだみあたらん。
1956年8月13日の起水泳場の写真。え、起に水泳場があったのか。木曽川でおよいどっただ。「一宮方面からも蘇東線にのっておおくのひとがおとずれました」とのこと。蘇東線ってのはのちの名鉄起線のことで、いまはない。いや、電車で起宿にいって、水泳ができたとは。どこにあったのかな。
市川房枝の資料もあって、1951年、起での同窓会のときの写真。最前列ひだりからふたりめが市川房枝で、3人めが岩田よね先生。高等小学校1年生のころ、市川房枝はこの岩田よね先生にあこがれとっただ。
鎌倉街道の地図。これも興味ぶかい。江戸時代の東海道とちがって、美濃のくにをとおって京につながっとる。東海道とかさなるわが三河のくにでも、鎌倉街道じゃあ、八橋や矢作、山中、豊川とか、東海道のしゅくばとはべつのとこがしゅくばだっただ。
名古屋を中心とした尾張の諸街道図。美濃路を清洲宿と稲葉宿のまんなかでみぎに分岐して、中山道加納宿につながるおすし街道こと岐阜街道がある。ほれから、美濃路を萩原宿と荻原宿のまんなかでひだりに分岐して、また美濃路大垣宿につながる竹鼻街道がある。ほの別名が駒塚街道。あ、きょう駒塚道のみちしるべで美濃路からひだりに分岐するみちをみてきただけど、たんに木曽川堤防にでるみちじゃなくて、美濃路のとちゅう区間をちかみちしていくみちだっただ。
見学をおえて資料館をでるときに、おんなの館員さんに起水泳場はどこかってきいてみる。こっからかみにいって、陸閘(りっこう)のあるところですよって。あ、陸閘ってまえに起宿にきたときにいったとこだ。ほいで、親切にもとちゅうまで同行してくれるっていう。
資料館からうらにでて木曽川堤防をかみにいく。こっからまあちょっといったとこにあるっておしえてくれて、館員さんとわかれる。
あった。ここだ。さっき資料館でみた写真とおんなじ光景だ。起第2陸閘のそとのここが起水泳場だったのか。
きょうはすてきなたびができた。
陸閘をでて、いえじにつく。
(さんこう)
- 乗車記録 - 2021年11月11日、もくようび、平日
- いき
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- 陸閘(りっこう)をぬけるとほこは水泳場だった。
陸閘は木曽川の堤防をくぐる起(おこし)第2陸閘で、水泳場は起水泳場。むかしの写真をみると水泳客でごったがえしとる。ほんな時代があっただ。
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- 鏡台のまえに…|iwase.akihiko|インスタグラム|2021年11月11日
- うでたまご…|iwase.akihiko|インスタグラム|2021年11月11日
- あいち朝日遺跡ミュージアムでみた「天下の十字路」のポスター
- 2021年10月26日、このポスターをみて、尾西歴史民俗資料館で開催のこの展覧会をしった。
- 2021年10月26日、このポスターをみて、尾西歴史民俗資料館で開催のこの展覧会をしった。
- 尾西歴史民俗資料館の市川房枝資料 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2022/02/23 〔ついか〕
- 鎌倉街道の地図 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2022/02/23 〔ついか〕
- 名古屋を中心とした尾張の諸街道図 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2022/02/23 〔ついか〕