ぶらーっていった名古屋城。にのまるに発見したいしぶみで、にのまるに歩兵第6連隊があったことをしった。
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名古屋駅市バスのりばからメーグルにのる。
トヨタ産業技術会館、ノリタケの森、四間道(しけみち)ってまわって名古屋城にとうちゃく。
ほんまるのほうにはいかんで、バス停からひがしにいって名古屋城にのまるおおてにのもんをくぐる。あじわいのある高麗門だ。いちのもんとあわせてますがたを形成しとっただけど、いまはいちのもんはない。
にのまるにはいってちょこっときたにいったとこに「歩兵第6連隊の由来」っていしぶみを発見。名古屋城に軍隊があったってのはしっとったけど、このにのまるに歩兵第6連隊があっただ。
歩兵第6連隊の由来
- そもそも1871年年8月、東京鎮台第3分営を名古屋に設置せられたのが起源で、その后1873年第3分営を名古屋鎮台と改め、歩兵6番大隊と称した。この年わが国に徴兵令が施行され、翌1874年3月壮丁(そうてい)を愛知、三重、岐阜の県から徴収し、歩兵第6連隊を創設、この地名古屋城にのまるに兵営を新築し12月27日軍旗を拝受し衛戊(えいじゅ)した。以来精強な軍隊の練成に励み国威の宣揚につくした。
- 建軍早々にして1877年西南の役に初陣し、熊本城の囲を解き本営を護衛し干城(かんじょう)の任をつくした。その后日清戦役に出陣し、九連城(きゅうれんじょう)海城(かいじょう)の戦闘で勇名を挙げ、1904、5年の日露戦争にては首山堡(しゅざんほ)、沙河(さか)、于洪屯(うこうとん)の戦闘で武勲を樹てた。1918、9年のシベリア派遣、昭和初期における山東派兵及び満洲守備に加わりて、よく護国の大任をまっとうせり。
- 1937年支那事変突発するや上海方面に急派せられ、幾多の辛酸をなめ威武堂々、南京、武漢に転進、次いで応山淅河地区に進駐し、警備地の治安確保に任じつつ大東亜戦争に突入し、もっぱら大陸にありて長沙、常徳、湘桂など累次の会戦に加わりて、東亜新秩序の建設に邁進した。
- しかれども大勢我に利なく終戦となり、命により武装を解除し国軍は解散するの憂き目に遭い、今や郷土の誇りを継ぐ軍隊なきは誠に遺憾に堪えない。
- ここに戦友相計り由縁の地に碑を建て、由来を刻み先人の偉績を顕彰し、併せて殉国の英霊を弔慰しその功勲(こうくん)を不朽に伝う。
1980年3月10日
元歩兵第6連隊戦友生存者有志建之
1874年に設立。以来、西南の役、日清戦争、日露戦争、シベリア派遣、山東派兵、満州守備、支那事変、大東亜戦争って連隊としての任務をはたしていくだけど、1945年の敗戦によって解散となる。郷土のほこりをついでいく軍隊がないのはほんとにざんねんだとのこと。じつにほのきもちがようつたわってくるいしぶみだ。
ひがしに愛知県体育館のとこまでいってにのまるをみわたす。つわものどもがゆめのあとか。
そとぼりをわたってにのまるをひがしにでたとこで、ふりかえっていしがきをみる。いや、なんちゅうたっかいいしがきだ。こんなののぼれっこねえや。
みなみにちょこっといって地下鉄名古屋城駅のいりぐち。こっから電車をのりついでうちにかえる。
〔2023年3月とおか、きんようび、平日〕