岡本兵松(おかもとひょうまつ)こそが明治用水をつくったおとこだってしって、碧南(へきなん)の新川(しんかわ)からあんじょうの石井(いしい)に移住したひとだってことをしって、中日新聞の四方さつきさんの記事に生誕200年のことがのっとったことをおもいだして、きょう2021年4月30日、石井町内会にいってばしょをおしえてもらって、兵松公園にある銅像をみてきた。
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あんじょうし石井町は県道12号線のにしがわ、ひがしむきにある兵松公園。
いりぐちひだりがわに「明治用水実現の功労者岡本兵松」の説明がき。
「1821年、いまの碧南市山神町(やまがみまち)にうまれる。1853年ごろ、都築弥厚の子孫から五か野原(ごかのはら)の原野20町歩をかいいれて、開墾をはじめる。1871年ごろ、つまとともにいまの石井町に移住。1876年、伊予田与八郎といっしょにだした用水計画が認可される。1879年、工事着工。1880年4月18日、いまの豊田市水源町で開通式。翌年明治用水って命名されて、かんがい面積は最大10,760ヘクタールにおよぶ。1897年10月6日、「いくかわに あおたのかぜや むらつづき」の句をのこして、76年の生涯をとじる」。
いや、碧海台地の開墾にとりくみながら、明治用水の計画をすすめていっとったとはしらんかった。しめくくりに「生涯をかけて実現した明治用水」ってかいてあるけど、ほんとにほのとおりだ。
おくのつきやまのみぎのほうに、岡本兵松の銅像。「故岡本兵松翁銅像」っていう銘板の文字をかいたのは山崎延吉(やまざきえんきち)。あんじょう農林高校の前身、愛知県立農林学校の初代校長で、あんじょうの農業の発展につくしたひとだ。
銅像のみぎうしろに「岡本兵松辞世の句のいしぶみ」。
「いくかわに あおたのかぜや むらつづき」
おくのつきやまのひだりのほうに「明治用水発起岡本兵松のいしぶみ」。
銅像のみぎしたに「岡本翁のいしぶみ」。
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明治用水実現の功労者岡本兵松
岡本兵松は、1821年、碧海郡大浜村鶴ケ崎(いまの碧南市山神町)に、醸造業や回船問屋をいとなむ一族のいえにうまれました。かれは身長がたかく、厳格な性格の人物だったとしられております。また信仰心にあつく、真宗大谷派の熱心な門徒でもありました。
1853年ごろ、岡本兵松が32才のとしに、碧海台地へのかんがい用水を計画した都築弥厚(1765~1833)の子孫増太郎から五か野原(ごかのはら/いまのあんじょうし石井町、桜井町、小川町など)の原野20町歩(およそ20ヘクタール)をかいいれ、開墾をはじめました。そして、1858年と1868年には、弥厚の計画をひきつぐかたちで用水計画をねがいでますが、いずれも許可されませんでした。1871年ごろ、かれはつまとともに石井新田(いまの石井町)に移住し、開墾と用水計画の推進に専念することになります。
1873年、愛知県へふたたびねがいでると、類似の計画をかんがえとった碧海郡阿弥陀堂村(いまの豊田市畝部西町)の伊予田与八郎(1822~1895)との計画合併をもとめられます。翌1874年、伊予田の計画には無理があることが判明すると、伊予田が岡本の計画に合流するかたちでふたりの協力体制がうまれました。
このあと、県による測量がおこなわれるなか、1876年に愛知県令(あいちけんれい/知事)として赴任した安場保和(やすばやすかず)は、殖産興業につながるこの計画を推進しました。同1876年、岡本と伊予田は安場新県令にあらためて用水計画を出願します。県は細部の計画をくわえ、明治政府に計画願書を提出し、認可されました。
ここで課題となったのが、各むらむらの説得と資金の調達です。岡本と伊予田は、おもに岡本がむらむらの説得を、伊予田が出資者や県との交渉をおこなうというやくわり分担をしておりました。いずれも非常に難航しましたが、県の協力や仲介もあり、1879年には工事着工にこぎつけました。
1880年4月18日、用水の水源(いまの豊田市水源町)で、内務卿松方正義らをまねいて成業式(開通式)がおこなわれました。このとし59才になる岡本は、出資者、発起人代表としてあいさつするとともに、松方の「くにをとますは水理にあり」とのことばにとりはだがたつほど感動したと手記にしるしております。そして翌1881年には「明治用水」と命名され、そのかんがい面積は最大で10,760ヘクタールにおよびました。
1883年、岡本ら明治用水の功労者には、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)がおくられます。しかし、岡本自身は多額の資金をついやしたうえにながねんの苦労から体調をくずし、経済的にくるしい生活を余儀なくされました。
1897年10月6日、「いくかわに あおたのかぜや むらつづき」(明治用水によって、むらむらのあいだには水田がひろがり、きもちのいいかぜがふいとる)の句をのこし、岡本は76年におよぶ生涯をとじました。そして1899年には、かれの業績を未来につたえるため、頌徳記念碑がもうけられました。
そのごの碧海台地では、大正時代から昭和初期にかけて、先進的な農業を中心とした総合的地域振興活動「にほんデンマーク」としてゆたかで文化的な社会を実現し、現在へとつながっていきます。
わたしたちは、岡本が生涯をかけて実現した明治用水がこんにちの基盤となったことを、けっしてわすれてはならんだらあ。
〔あんじょうし教育委員会〕
岡本翁のいしぶみ
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(さんこう)
- 岡本兵松辞世の句のいしぶみ。|iwase.akihiko|インスタグラム|2021年4月30日
- 明治用水開削の功労者・岡本兵松 - あんじょうで生誕200年の式典など企画:中日新聞(四方さつきさん)|2021年4月6日
- 明治用水の掘削に尽力した岡本兵松(1821〜1897年)の偉業を知ってもらいたいと、岡本が暮らした安城市(あんじょうし)石井町(いしいちょう)の住民たちが今年2021年、生誕200年祭を計画し、準備を進めとる。現在は写生大会や写真コンテストの作品を広く募っとる。(四方さつき)
- 「安城が原(あんじょうがはら)」と呼ばれる荒涼とした碧海(へっかい)台地に水の恵みをもたらそうと、最初に矢作川の水を導く用水開削計画を進めたのが、和泉村(現在の安城市和泉町)の地主都築弥厚(つづきやこう/1765〜1833年)だ。しかし農民らからの強い反対を受け、弥厚が死去すると計画は頓挫した。弥厚の死から39年后。岡本は伊予田与八郎(1822〜1895年)とともに、工事開始のために役所への申請や農民の説得、資金集めに奔走し、用水の実現にこぎ着けた。
- 岡本は碧海郡大浜村(現在の碧南市)に生まれ、1871年に現在の安城市石井町に転居した。「都築に比べ、岡本の知名度が低いのをかねがね残念に思っとった」と話すのは、住民でつくる生誕200年記念事業実行委員会の沢幹雄委員長(71)だ。生誕200年は、市内外に岡本の偉業をアピールするチャンスと考えたという。
- まずは住民の機運を高めようと2018年3月から、町内に菜の花畑を整備し「兵松菜の花まつり」を始めた。明治用水土地改良区(安城市大東町)の職員による勉強会も開いた。今年2021年2月には、町内の兵松公園に立つ岡本の銅像を70年ぶりに磨いたり傾いた台座を直したりした。2021年6月19日に公園内で記念式典を開くほか、今年秋には講演会やマルシェも企画しとる。岡本の経歴を紹介するパンフレットも作り、公共施設などで配る予定だ。
- 兵松公園を題材にした写真コンテスト(2021年4月30日正午締め切り)と、小学生対象の写生大会(2021年5月7日正午締め切り)は作品を受け付け中。窓口の石井町内会事務所では写生大会用の画用紙も配っとる。沢さんは「写真を撮ったり絵を描いたりしながら、まずは岡本に親しみを持ってほしい。生誕200年を多くの人で盛り上げたい」と張り切る。
(問)石井町内会=0566-92-4099(平日午前9時〜正午) - 【写真】
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