にいけ八幡社おたうえ神事由来

にいけてんてこまつりにいってかってきたにいけ八幡社おたうえ神事由来がきょうみぶかく、一部を紹介する。

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2023.1.3 (43) にいけ八幡社おたうえ神事由来 690-980

愛知県指定無形民俗文化財
清和天皇悠紀斎田旧蹟伝説地
熱池八幡社御田植神事由来
愛知県西尾市熱池町

てんてこまつりは愛知県の無形民俗文化財に指定されとるだ。にいけは漢字で熱池ってかく。

2023.1.3 (44) 熱池八幡社おたうえ神事由来(2、3ページ) 1720-1270

村社八幡社
祭神 誉田別尊(即チ応神天皇
鎮祭 愛知県西尾市熱池町神田
祭典 陰暦正月3日ノ御田植祭ナリシモ1961年ヨリ太陽暦1月3日午后1時ヨリト改ム
宝物 棟札5札

てんてこまつりはまいとし1月みっか午后1時から開催。

由緒
清和天皇859年大甞会悠紀ノ地ニ創メテ社殿ヲ造営シ八幡大菩薩大明神ト敬称シ奉レリ、其ノ后神社二菩薩号ハ許サレザルコトトナリ八幡宮ト改称奉り更二宮ハ許サレザルコトトナリテ今ノ八幡社ト改称シ奉レリ

859年清和天皇大嘗祭悠紀斎田の地に八幡大菩薩大明神ができた。のちになまえが八幡宮、八幡社ってかわっていまにいたる。

悠紀
1.碑
表面 清和天皇悠紀斎田旧蹟伝説地
裏面 1928年9月6日|指令社兵第247号|愛知県許可

にいけ八幡社境内にたしかにこのいしぶみがたっとる。

御田植祭ノ神事
1.期日 新暦1月3日(午后1時)
2.調度品 1.飯ひつ 白米2升ヲ炊キひつニ入レテ蓋ヲナシ赤キ風呂敷様ノ布切ニ包ム
2.鱠 大根ト魚肉トヲ鱠(なます)ニシタルモノヲ蓋付ノ魚船様ノ容器に入レタルモノ
3.生魚 両身ヲ削ギ取リ鱠ニ用ヒタル残骸ヲ〆縄ニ吊シタルモノ
4.神酒樽  
5.藁灰 早朝神殿ト鳥居トノ左側中間ニテ藁ヲ積ミ之ヲ焼キテ灰トシタルモノ
6.門松 正月朔日鳥居前ニ立テタルモノ
7.男根 大根ニテ作ル
8.竹箒 青笹、青竹ニテ作ル
3.奉仕員 1.太鼓を持テル者 1人
2.飯ひつヲ担キ行ク者 1人
(左手ニテ肩ノ辺二捧ク)
3.神酒樽ト鱠トヲ負ヒ行ク者
(笹付ノ青竹2本ヲ根ト先トヲ互ヒ違ヒニ並ベテ束ネタルモノヲ棒トシ神酒樽ヲ前荷、鱠ノ容器ト生魚トヲ后荷トス)
右3人ノ服装
赤キ衣服ヲ着シ赤キ布片ニテ覆面ヲナシ白足袋二草履ヲ穿チ腰部(尻の上部)二大根ニテ作リタル男根ヲ付ク
4.竹箒ヲ持テル者
右3人ノ服装
前ノ3人ト同様ナレトモ只腰部ノモノヲ省キタルノミ
(笹竹、赤色ノ衣服、男根等ハ上古最モ神聖ナルモノトシテ多ク神事二用ヒラレタルモノナリ、今尚ホ上古ノ儘ヲ用ヒ居レリ)
4.行列ノ順位 1.塩導
2.神職
3.区長
4.氏子総代
5.太鼓ヲ持テル者
6.飯ひつヲ担ク者
7.神酒樽ヲ負フ者
8.竹箒ヲ持テル者
5.行事 各員社守ノ宅ニテ準備ヲナシ神社ニ至ル、其途中鼓手ノ打ツ太鼓ノ拍子(テンテン テンテン テンテコ テンテン)二合セテ腰ヲ振リ腰部ノ男根ヲ躍ラス
社守ハ鳥居前ニ之レヲ迎へ神職祓式ヲ行フ、秡終ツテ一同拝殿二着席礼拝シテ神酒ヲ戴キ奉仕員一同ハ拝殿ヨリ降リ竹箒ヲ持テル者ハ予テ設ケ置キタル藁灰ノ傍二佇立ス、他ノ者ハ鳥居ノ左柱(向ツテ)ト藁灰トヲ中心ニシテ左回リ二太鼓ノ拍手ニ合セテ腰ヲ振り男根ヲ躍ラセツツ回ルコト3回半回リ終ルヤ此ノ3人拝殿ニ昇ル、是レヲ合図二竹箒ヲ持テル者箒ニテ藁灰ヲ四方ニ蒔キ散ラス(肥料ヲ施スニ凝シタルモノナリト伝フ)終リテ一同再ビ拝殿二着席全員礼拝ス

やくおとこのあか装束やしりにつけただいこんちんぼにめをうばわれるてんてこまつりだけど、あか装束もだいこんちんぼも「上古最モ神聖ナルモノトシテ多ク神事二用ヒラレタルモノ」なだ。

2023.1.3 (26) てんてこまつり - 行列 1920-1490 2023.1.3 (27) てんてこまつり - 行列 1990-1500

塩導を先頭ににいけ八幡社にむかうおたうえ神事の行列。

〔2023年1月みっか入手〕
【にいけてんてこまつり】

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(以下原本写真)

2023.1.6 (1) にいけ八幡社おたうえ神事由来 - 表紙 2140-1560

2023.1.6 (2) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (0) 2260-1620

2023.1.6 (3) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (1) 2100-1560

2023.1.6 (4) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (2-3) 2000-1500

2023.1.6 (5) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (4-5) 2060-1550

2023.1.6 (6) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (6-7) 2020-1520

2023.1.6 (7) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (8-9) 2130-1620

2023.1.6 (8) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (10-11) 2100-1580

2023.1.6 (9) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (12-13) 1960-1450

2023.1.6 (10) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (14-15) 2000-1470

2023.1.6 (11) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (16-17) 2120-1590

2023.1.6 (12) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (18-19) 2100-1580

2023.1.6 (13) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (20-21) 2050-1540

2023.1.6 (14) にいけ八幡社おたうえ神事由来 (22) 2120-1530

- 以上 -

名鉄岐阜駅のうつりかわり

写真 (14) ひがしりっきょうをいく笠松線電車 1230-890

名古屋本線岐阜がわの起点名鉄岐阜駅について、ほのうつりかわりをみてみた。JR岐阜駅ともどもいろいろとうつりかわりがあって、あたまんなかを整理するためにみてみた。

みだしの写真は東海道線をこえる陸橋をわたっていく名古屋本線の電車。てまえの線路は陸橋へののぼりぐちにあった初代名鉄岐阜駅構内の線路。うえをとぶのは陸軍がフランスから購入したニューポールNGがた単葉機。岐阜市歴史博物館蔵。

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名古屋本線をきたにすすんで東海道線をきたにくぐって神田町どおりのわきでいきどまりになったとこが、岐阜がわの起点名鉄岐阜駅になる。同時に連絡通路をわたっていったべつののりばからはひがしに各務原線がのびていく。ところでさいしょっから名鉄岐阜駅がここにあったわけじゃない。JR岐阜駅ととなりあわせにあった。

図 (1) 岐阜駅位置変遷説明図 1260-910
渡利正彦『岐阜駅物語』岐阜駅位置変遷説明図

東海道線もふくめて歴史をたどってみる。さいしょにできたのがJR岐阜駅。このとき東海道線はいまよりきたのほうをとおっとって、おすし街道とまじわる地点に初代JR岐阜駅ができた。岐阜のまちは金華山にしがわのふもとに南北にのびとって、ほのめぬきどおりがおすし街道だった。岐阜のまちのみなみはずれになるこの地点に初代JR岐阜駅ができた。

1887年1月21日、初代JR岐阜駅が開業。

初代JR岐阜駅はすぐににしに移転した。おすし街道のにしに平行する八間道がみなみにつきるとこに2代JR岐阜駅ができた。八間道はいまの神田どおりで、えきができたとこは名鉄岐阜駅前交差点のとこ。

1888年3月ついたち、2代JR岐阜駅が移転開業。

時代がくだって東海道線がみなみにいまの位置につけかわって、いまの位置に3代JR岐阜駅ができた。八間道もみなみにのびて3代JR岐阜駅につきあたるかたちになった。えきのみなみがわは中山道加納宿の加納。この時点でまんだ名古屋本線はない。

1913年7月22日、3代JR岐阜駅が移転開業。
図 (2) 名鉄岐阜付近の線路の変遷 1180-1190
渡利正彦『岐阜駅物語』岐阜駅、新岐阜駅付近名鉄線路の変遷

3代JR岐阜駅ができたつぎのとしに岐阜から笠松のかんで名古屋本線が開業。ただし、さいしょは東海道線のみなみがわの広江駅が起点だって、おんなじとしのうちにきたに線路をのばして、東海道線をこえる陸橋ができるのと同時に初代名鉄岐阜駅が開業して名古屋本線の起点となる。いまの位置とはちがってJR岐阜駅ととなりあわせに開業。陸橋をわたってすぐにひだりにおおきくゆみなって地平におりていっとった。さきに開業しとった名鉄市内線とも線路がつながった。ただし、のりばはしましきのりばひとつだけで、ほれも電車2両分そこそこのながさしかなかった。

1914年6月ふつか、名古屋本線広江笠松間が開業。
1914年12月26日、名古屋本線初代名鉄岐阜広江間が開業。

戦后線路をつけかえて2代名鉄岐阜駅が開業。陸橋をわたってほのままきたにすすんで神田町どおりのわきまでいったとこに2代名鉄岐阜駅が開業。2代JR岐阜駅があったとこで、これがいまの名鉄岐阜駅になる。

1948年4月18日、2代名鉄岐阜駅が移転開業。

【むかしの岐阜の写真と地図 - 20世紀前半と江戸時代】
【岐阜につながる鉄道のうつりかわり 4.揖斐線の開業、名古屋本線の開業、市内線の延伸】
【岐阜、加納のへんのえきのうつりかわり】
【今昔地図】
【駅に着目した岐阜市中心部の都市構造に関する史的考察】
【東海道本線歴史的痕跡探訪記~尾張一宮-岐阜-大垣間編】

駄知をとおる大名街道 - 『ふるさと駄知再発見』から

きょねんの駄知のたびのおり、駄知小売商業協同組合でおんなの事務員さんにみせてもらった『ふるさと駄知再発見』って冊子にのっとった大名街道ってのがきょうみぶかく、しるしとく。

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表紙

ふるさと駄知再発見

2022.9.26 (39) 『ふるさと駄知再発見』 1670-1810

ふるさと駄知再生委員会
2014年6月

2022.9.26 (39-1) 1911年の駄知の地図 937-575
1911年の駄知の地図

冊子をつくったのはふるさと駄知再生委員会。表紙に1911年の駄知の地図もついとる。

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NO1.大名街道のロマン

大名街道(殿様街道)とは
江戸時代は、「中山道」「東海道」の本街道と、現在の土岐市を東西に走る「下街道(したかいどう/土岐宿、高山宿)」「中馬街道(柿野宿)」などの主要街道をつなぐ道として、三河街道、中馬中街道などが、現在の駄知町を通っとったと考えられております。
当時の駄知は岩村藩。100戸ほどの小さな村で、農業のかたわら、農閑期には焼き物をつくり、藩の御用窯ともなっておりました。
地元では、柿野~駄知~山田~猿子(益見)~岩村岩村藩の領内(一部除く)をつなぐルートを、通称「大名街道(殿様街道)」と呼んでおります。
藩内の村落をつなぎ、藩士たちが、領内巡検や江戸との往来に利用し、年貢、特産物などの物資、領民、馬などが岩村城下との間を行き交いました。
そして江戸の末期から明治にかけて、駄知土瓶や駄知どんぶりなどが全国へ流通。駄知の発展がはじまります。

2022.9.26 (40-1) 大名街道 1080-820

挙母(現在の豊田市)藩主内藤家は、江戸への参勤交代は幕命により、中山道経由。柿野から駄知を通り、下山田の旭王寺で休息をとり、猿子(瑞浪市益見)を経て、本街道へ向かったとされております。
挙母には「かきの」を記した道標が多く残り、三河から中山道への経由地として、柿野~駄知の道は重要な役割を果たしておりました。
鶴里町誌)

2022.9.26 (40) 『ふるさと駄知再発見』 - 大名街道 1700-1910

ほいでナンバー1として大名街道。いや、なかなか理解するのがむづかしい。まずこの地域を東西にはしる2本の街道がある。1本が下街道(したかいどう)中山道を大井宿(おおいじゅく)からにしにちょこっといったとこからひだりにえだわかれして、いまの中央線の経路をとおって大曽根にいたるみちだ。まあ1本が中馬わきかいどう(ちゅうまわきかいどう)。冊子には中馬街道ってかいてあるけど中馬わきかいどう。足助街道(あすけかいどう)すなわち中馬街道からえだわかれして大曽根にいたるみちだ。中馬街道は飯田から根羽(ねば)、足助ってとおって岡崎にいたるみちだけど、この中馬街道を根羽からみぎにえだわかれして、明智(あけち)、陶(すえ)、曽木(そぎ)、柿野(かきの)、瀬戸ってとおって大曽根にいたるみちだ。この地域をにしにぬけていったあと瀬戸線の経路をとおっていく。

つぎに下街道と中馬わきかいどうの中間をとおるのが中馬中街道中山道を大井宿でひだりにえだわかれして、にしに佐々良木(さざらき)、小里(おり)、駄知、下石(おろし)、笠原ってとおっていく。たぶんほのさきで中馬わきかいどうに合流して瀬戸から大曽根にいたる。駄知や笠原、瀬戸はこの経路で中央線をひくよう要望したけどかなわんかった。

東西にのびる街道を理解したとこでこんどは南北にのびる街道。三河街道が駄知からみなみに柿野(かきの)、挙母(ころも)をとおって岡崎にいたる。

ここまで理解したとこでやっと大名街道三河街道が中馬わきかいどうとまじわる柿野からきたにしゅっぱつ。三河街道が中馬中街道とまじわる駄知を経由。きたにいって名滝で下街道に合流。下街道をひがしにいって釜戸町屋でみぎにえだわかれ。中馬中街道とまじわる佐々良木を経由。岩村で終点。おんな城主でなだかい岩村だ。

この大名街道を参勤交代でいききしたのが三河挙母と美濃の岩村藩挙母藩がこの大名街道をとおって下街道にでて、さらに中山道をとおって江戸にでた。美濃の岩村藩がこの大名街道をとおって岡崎にでて、ほっから東海道をとおって江戸にでた。いや、おどろきだ。挙母藩なんか岡崎から東海道をいったほうがずーっとはやいのに。岩村藩なんか大井宿から中山道をいったほうがずーっとはやいのに。

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大名街道案内図

2022.9.26 (41) 『ふるさと駄知再発見』 - 大名街道案内図 1460-1470

駄知のまちをこんなふうに大名街道がとおっとったよっていう地図。うん、駄知のたびであるいたみちだ。にしえきのへんからひがしえきのへんまで、このみちをふくめてほとんどのみちをあるいた。


【駄知のたび - あきひこゆめてつどう】