碧海郡(へっかいぐん)は六ッ美(むつみ)の土井(どい)におしろがあったってことをしって、いってきた。
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まちのいちばんにし、城屋敷(しろやしき)や蔵屋敷(くらやしき)っていうあざのへんにおしろはあったらしいだけど、ほれらしいばしょは発見できず。
まちをはずれたにしがわのたんぼみちをとおっとって、蔵屋敷のあざのなか、まちのにしのはずれに本多秀清のはかと早乙女一族のはかがあるのを発見。これも、グーグル地図にはでとるけどなかなかさがせんで、やっとのことみつけただ。
ちょっとまえに、おんなじ蔵屋敷のあざのなかにある社宮司社(しゃぐうじしゃ)に、土井氏一族発蹟地のいしぶみを発見したとこで、こんどは本多秀清のはかと早乙女一族のはかだ。土井氏はもともと早乙女姓をなのっとったものを土井姓にあらためたってことで、これはこんかいの早乙女一族のはかとはなしがつながる。
みなみがわから接近。ふくろこうじをきたむきにつきあたったひだりがわに、本多秀清のはかと早乙女一族のはかはある。ぜんぶひがしむきにたっとる。
さいしょに本多秀清のはかにおまいり。しかくいいしの壇のうえ、まんなかにおおきな塔があって、りょうわきにちいさな塔がある。壇のてまえ左右にいしどうろう。
つづいて、ひだりの早乙女一族のはかにおまいり。6基のちいさなはかが、よこならびに1列にならんどるだけど、それぞれは、ちいさないしの台座うえに、素朴なかたちのいしづみがのっとるっていうかたちだ。ちょうどにしのそらにくろいくもがでてきたとこで、ちょっとおどろおどろしさをかんじる。
てまえに説明がきがあって、つぎのようなことがかいてある。
土井城主本多豊后守秀清公廟所(どいじょうしゅほんだぶんごのかみひできよこうびょうしょ)
松平氏につかえる本多秀清が土井村をたまわって以来、4代にわたってこの地を支配。3代信重のとき築城。4代広孝がとちゅうで田原城主になって、本多氏の支配がおわる。
広孝のこで土井城うまれの康秀が1601年、岡崎城主になって以来、3代にわたって本多氏が岡崎城主をつとめる。
早乙女一族のはか
このはかが、土井利勝の先祖早乙女一族のはかだっていわれとる。
土井利勝はこの地の早乙女一族のうちに養子にきただけど、主君の徳川家康に命じられて土井姓にあらためる。家康からつづく秀忠、家光にもつかえて、16万石の古河城主や大老職にまで出世する。
土井にかかわって、早乙女氏、土井氏、本多氏の3氏が登場するだけど、整理していうとつぎのようなことか。つまり、早乙女氏はもともとの土豪。ほれが土井氏に改姓して、のちに古河城主や大老職にまで出世する土井利勝を輩出。本多氏は外来の士族で、4代のかんにかぎってこの地を支配した。うん、きっとほういうことだ。
〔2020年4月にじゅうよっか訪問〕
(さんこう)
- 土井の社宮司社(しゃぐうじしゃ) - あきひこゆめてつどう|2020/04/23
- 土井(どい)に社宮司社(しゃぐうじしゃ)っていうかわったなまえの神社がある。土井は青野街道ぞいのまちで、美矢井橋(みやいばし)で矢作川をひがしにわたって、上青野(かみあおの)をとおりぬけると一面にひろがるたんぼのむこうにある。碧海郡(へっかいぐん)は六ッ美(むつみ)地区になる。
- 岡崎観光きらり百選No.14(岡崎観光文化百選)
三河武士ゆかりの地(土井氏一族発祥の地)
幕閣(ばっかく)で大老としてかつやくした土井利勝(どいとしかつ)はこの地にすみ、早乙女(さおとめ)姓をなのったったけど、地名をとって土井に改姓した。子孫は下総古河(しもうさこが)、越前大野城主などとしてかつやくした。 - 土井氏一族発蹟地のいしぶみをやっとのことで、境内東南すみに発見。うちすてられたように、こだちのなかにたっとる。
- 早乙女小左衛門利昌ってのがのちの土井利昌で、大老になった土井利勝の養父だ。