土井(どい)に社宮司社(しゃぐうじしゃ)っていうかわったなまえの神社がある。土井は青野街道ぞいのまちで、美矢井橋(みやいばし)で矢作川をひがしにわたって、上青野(かみあおの)をとおりぬけると一面にひろがるたんぼのむこうにある。碧海郡(へっかいぐん)は六ッ美(むつみ)地区になる。
◇ ◇
境内のみなみがわのみちに面して「岡崎観光きらり百選No.14」っていうたてかんばんがあって、よんでみる。
岡崎観光きらり百選No.14(岡崎観光文化百選)
三河武士ゆかりの地(土井氏一族発祥の地)
幕閣(ばっかく)で大老としてかつやくした土井利勝(どいとしかつ)はこの地にすみ、早乙女(さおとめ)姓をなのったったけど、地名をとって土井に改姓した。子孫は下総古河(しもうさこが)、越前大野城主などとしてかつやくした。
ほー、幕府の大老をつとめたようなえらいひとが、この土井のまちからでたのか。
由緒がきもあって、よんでみる。
社宮司社
祭神(さいじん)はあめのうずめのみこと(天鈿女命)、あまてらすおおみかみ(天照大神)、とようけおおかみ(豊受大神)のみはしら。
1621年の旧記に社口明神ってでとる。1718年の土井古城古図に社口神大明神ってでとる。
1846年、社口明神の本殿を改築、郷東の神明稲荷明神を合祀。
1961年、本殿改築遷宮。
社宝として、棒の手の薙刀(ぼうのてのなぎなた)、刀、鎖鎌(くさりがま)、棒、巻物7巻、古絵図がある。
末社に津島大社のすさのおのみこと(素盞嗚尊)をまつる天王社と、かつて土井城内にあった摩利支天(まりしてん)をまつる摩利支天社がある。
あめのうずめのみことってのは、あまてらすおおみかみがいわとがくれしたときに、ほのまえではだかおどりをしたことで有名なかみさまだ。ほのかみさまが祭神の筆頭にかいてある。いまは社宮司社っていうなまえだけど、もともとは社口明神っていうなまえだったらしい。わがあんじょうにも、社口堂(しゃぐんどう)っていうあざがある。土井城っていうことばがでてくるけど、この地におしろがあったとはしらんかった。
境内ひだりに土井町公民館。とりいてまえみぎのでっかい石柱には「社口司社」ってかいてある。やっぱり、もともと「社口」っていう表記だっただ。石柱のうらめんに「1918年10月いつか建之」。
拝殿におまいり。木造かわらぶきひらいりの簡素なつくりだけど、やねがうねっとる。由緒がきにある「1924年、社殿の遷宮」のときからいまにいたっとるにちがいない。
拝殿みぎの天王社と摩利支天社にもおまいり。たてもんはひとつ。
本殿からおく、わたり殿から本殿につながる。ぜんぶかわらぶきで、拝殿におなじく本殿もひらいりだけど、本殿はだいぶあたらしい。由緒がきに「1961年、本殿改築遷宮」ってかいてあるとおり、ほのときにてをいれたにちがいない。
土井氏一族発蹟地のいしぶみをやっとのことで、境内東南すみに発見。うちすてられたように、こだちのなかにたっとる。
うらめんに説明がきがあって、よめるかぎりによんでみる。
土井氏一族発蹟地
早乙女小左衛門利昌住此地養利勝為子因地名改氏土井〇〇
1917年3月
早乙女小左衛門利昌ってのがのちの土井利昌で、大老になった土井利勝の養父だ。
境内西南すみに伊勢神宮遥拝所があるのをたしかめて、見学をおえる。
〔2020年4月22日訪問〕
(さんこう)
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- 土井町(どいちょう)交差点を鈍角に右折。ここで青野街道に合流。
- つづいて土井町西(どいちょうにし)交差点を直進。交差するあたらしいみちをひだりななめに鈍角によこぎる。
- 土井(どい)バス停を通過。
- たんぼんなかの土井町辻(どいちょうつじ)交差点を直進。こっからあたらしいみちをみぎにいくと、上青野町(かみあおのちょう)の美矢井橋(みやいばし)にでて、対岸のあんじょうしにわたれる。
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- 土井氏 - Wikipedia
- 土井氏の直接の始祖である土井利勝も出生と育ちが複雑である。徳川家康の母於大の方の実兄水野信元の庶子として1573年に浜松で生まれ、のちに土井利昌の養子になったとされ、家康の母方の従弟であった。
- 養父である土井利昌は、甚三郎または早乙女小左衛門と称し、家康に仕えて1598年9月11日に没した。
- 利勝は早くから家康と秀忠の近くで仕え、1602年12月28日下総小見川1万石を与えられ、その后2万石に加増。1610年1月に下総佐倉3万2,000石、1633年4月7日に下総古河16万石となった。
- 幕府内でも順調に出世し、1610年8月3日(一説には1623年9月)には老中、1638年11月7日には大老に就任する。