△ みなみからみた大友皇子のはか(前方后円墳の后円部)
旧碧海郡(へっかいぐん)矢作町(やはぎちょう)の西北、小針(こばり)に、大友皇子(おおとものみこ)のはかがある。小針は碧海台地のひがしのはしにあるまちで、はかがあるばしょは、西三河南部環状道路小針町西交差点の西南、三菱自動車工業の住宅やら研修センターやら公園やらがあるしきちのなかで、たいらなしきちのなかにひとつだけあるこやまが、大友皇子のはかだ。
はかのまえの説明がきをよんでみる。
このあたり一帯は、往時大小14基の古墳があって壮観を呈しておったが明治以降開墾のため破壊され、この柵内のこだかい円丘、俗称大塚のみが原形をたもっておる。もとは前方后円墳で、周囲には円筒はにわがめぐらされておったが、いまは后円部のみが残存しておる。
この古墳は往古から大友皇子のつかだという伝説がある。すなわちいまをさる1,300年のむかし、天智天皇崩御后、皇太子大友皇子が近江の大津宮で政治をとったが、天智天皇のおとうと大海人皇子(おおあまのみこ、第40代天武天皇)が吉野で挙兵し、近江をせめ、大津宮は兵火にあってやけおち、大友皇子はやぶれて自害した(西紀672年、おんとし25才)。これを壬申の乱(じんしんのらん)とよぶ(日本書紀)。
しかるに西大友町(にしおおどもちょう)に鎮座する大友天神社の「社志」によると、
「大友皇子は自害したといいふらして、ひそかに一族のもの数名と三河にのがれ、大海人皇子の謀反(むほん)をうらみ悲憤にくれたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田(じんでん)にほうむられた。従者長谷部信次が神社を創建し皇子を祭祀した。これが大友天神社である。大友という村名もこれに起因する」
という由緒がある。このつかは現在小針町字城跡(しろあと)123番地市川金平氏の所有で、同家で先祖代々丁重に守護しきたっておる。
なお大友皇子は1870年に弘文天皇とおくりなされ、御陵は大津市にたてられておる。
1971年12月
名古屋菱重興産株式会社建之
うん、壬申の乱って、ならった。大友皇子とか大海人皇子とかいうなまえもきいた。ちち天智天皇からくらいをゆずられた大友皇子だけど、おじ大海人皇子の挙兵によって自害においこまれただ。勝利した大海人皇子は天武天皇になる。ただ、大友天神社の社記によると、おもてむき自害したことにしといて、じつは三河におちのびていきながらえとったってことなだ。ほー。
碧海郡にはほかに景行天皇の皇子、いさきいりひこのみこのはかも、こっから碧海台地のひがしのはしをみなみにちょこっといった西本郷にあるし、皇室や皇族とかかわりのふかいとちがらなのかもしれん。
△ 大友皇子のはか(うえ=ひがしめん、なか=きためん、した=にしめん)
〔2020年7月23日訪問〕
(さんこう)
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- 弘文天皇 - Wikipedia
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