きょう2021年2月なのか、つまとふたり平戸橋までいって、すてきな洋館を発見した。井上徳三郎の迎賓館だ。まわりのようすもふくめて、以下に紹介する。
〔井上徳三郎の迎賓館〕〔豊田市民芸館〕〔中部電力越戸水力発電所〕〔平戸橋のはし〕〔安城館あと〕
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井上徳三郎の迎賓館
豊田市民芸館のしきちの一角に、こぶりな洋館を発見。おー、井上徳三郎の迎賓館か。
旧井上家西洋館
- このたてもんは、明治時代初期に名古屋で開催された博覧会の迎賓館として建築されたってつたえられております。ほのあと、銀行として利用されたあと、1928年、故井上徳三郎氏が経営しとった井上農場の迎賓館として、現在の豊田市井上町に移築されました。ほいで、1989年、銀行として利用されとったすがたに復元し、このばしょに移築されました。
- たてもんの1階には、和風の連子格子(れんじごうし)のまど、2階ベランダには、西洋風の柱頭かざりのついたまるばしらや菱格子天井(ひしごうしてんじょう)があります。木造2階だて、建築面積33.38平方メートルの和洋折衷のたてもんで、明治時代の洋風建築物としては、豊田市内でゆいつのこっとるもんです。このたてもんは2000年にくにの登録文化財に登録されております。
- みどころ
- 玄関うえのかぶのかたちをしたまどわく
- かぶは縁起のいいたべもんっていわれ「かぶがあがる」っていうことばにもつうじております。
- 2階アーチがたのまどやガラス
- 明治時代のゆがみのあるガラスで、当時のふんいきをかんじることができます。
井上徳三郎のなまえはついさいきん、豊田市近代の産業とくらし発見館で開催中の挙母駅開業100年展でしったばっかりだ。開業まもない猿投駅の駅舎をつくるのに、私財を投じたっていう奇特なひとだ。ほのひとがこんな迎賓館ももっとっただ。すごいな。
2階の一室。
いかにも洋館なまど。ガラスはゆらゆらガラス。
1階から2階にあがるらせん階段。
いちだんひくいとこからみあげる迎賓館。
豊田市民芸館
第3民芸館のまどからやはぎがわをみたとこ。ほかに第1民芸館と第2民芸館がある。
中部電力越戸水力発電所
豊田市民芸館のしきちのちょっとかわかみに、この中部電力越戸水力発電所がある。さらにこのかわかみに越戸ダムがあるだけど、この越戸ダムができたおかげで、平戸橋勘八峡(ひらとばしかんぱちきょう)の景観がだいなしになったっていう。ダム放流のときにはいっきにみずかさがますみたいで、たしかにかわぎしのうえのほうまでよごれがついとる。むかしはあったっていう、うかいやかわくだりもいまはない。
△ 三河鉄道名勝図絵(1924年)三河名所案内 〔※ 平戸橋勘八峡のうかいやかわくだりがのっとる〕
平戸橋のはし
豊田市民芸館のしきちのちょっとかわしもに、この平戸橋のはしがある。こっからにしにいったとこに、平戸橋のえきがある。
安城館あと
平戸橋のはしをひがしにわたったとこに、安城館(あんじょうかん)のあと。1925年の矢作川遊覧地案内図にあった、料理旅館の安城館はいまはない。むかいに安城ガレージってのがあるけど、商売がえしたのか。
(さんこう)
- くつろぎのわがや。じゃなくて、井上徳三郎の迎賓館。…|いわせあきひこ|フェースブック|2021年2月7日16:19
- いや~、むかし矢作川でかわくだりやうかいがあったってしらんかったわ~。…|いわせあきひこ|フェースブック|2021年2月7日0:39
- 挙母駅開業100年展をみてきた - 2021年1月じゅうよっか - あきひこゆめてつどう|2021/01/31
- 平戸橋駅
- 1935年の平戸橋駅。えき近郊の「平戸橋勘八峡」は、開業当初、ハイキングの好適地としてしられとった。昭和のはじめにえきまえどおりにうえたさくらが、戦后、みごろをむかえると、平戸橋駅におりる観光客で2両の電車は超満員になって、越戸駅からのさかをのぼりかねるほどだったっていう。
- 猿投駅
- 2代めの猿投駅。1932年、井上徳三郎が私財を投じて駅舎を改築。えきの設置は、井上農場を開墾した井上徳三郎の尽力による。徳三郎は三河鉄道のかぶぬしになるとともに、えきの用地を提供。開発を記念してえきの付近にすむひとや商売を希望するひとに、3年間地代無料で土地をかした。レンガ、珪砂、木節粘土、農産品などが出荷され、肥料、鉱石が入荷された。
- 1993年の駅舎改築のさいに発見された、2代め猿投駅のむなふだ。1932年11月むいか、井上徳三郎の寄贈により猿投駅舎がたてられたことをしめしとる。 開業時の駅舎は廃車になった客車を使用しとっただげな。
- 井上徳三郎。1867年から1936年。名古屋市うまれ。日露戦争后の好景気にきずいた資金を社会のためにつかいたいってかんがえて、「農業は、これこそくにのもと、これをそだてるべし」っていう信念のもと、明治すえ、猿投山麓の原野130町歩をかって、1912年から「井上農場」の建設に着手。井上農場は1936年には開墾面積100町歩、60戸300余人のあたらしい集落になった。
- 徳三郎は、猿投農学校、いまの猿投農林高校を建設するさいにおよそ2万3千平方メートルの土地を寄付するなど、三河鉄道の誘致とともにおおくの貢献をおこなって、現在の「井上町」発展のいしずえをきずいた。
- 1924年10月、猿投駅開通の祝辞。猿投駅のある「井上町」は、この地域を開墾した井上徳三郎のなまえに由来する。徳三郎は祝辞をつぎのようにむすんどる。
「鉄道の開通により、駅頭の乗客やにもつのいきかいがひいちにちとにぎやかになり、人家がふえ、地方産物の一大市場ができることは想像にかたくない。えきの開業は、交通の利便と農村振興の一助となることをしんじてうたがわん」
- 矢作川遊覧地案内図
- 三河鉄道名勝図絵
- 平戸橋駅
- 井上徳三郎の迎賓館こと旧井上家西洋館 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021年2月7日 〔ついか〕
- 平戸橋のはし - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021年2月7日 〔ついか〕
- 安城館あと - おぼえがき(ゆめてつどう)|2021年2月7日 〔ついか〕