90年まえ、1927年の三河線の時刻表をてにいれた。正確にはまんだ名鉄に合併されるまえで、三河鉄道当時の時刻表だ。ほんなむかしの鉄道がどんなもんだったのか、開業区間、運行本数、表定速度についてみてみる。
△ 三河鉄道時刻表 - 1927年8月改正(題字)(くだり)(のぼり)
開業区間
時刻表は1927年8月改正のもんだけど、ほれが三河鉄道の歴史のなかでどういうときだったのか、みてみる。
さいしょ、1914年に大浜港-刈谷新間で開業。大浜港はいまの碧南。刈谷新はいまの刈谷で、ここで省線、のちの国鉄につながる。じまえで輸送するのは西三河の区域内だけで、あとは省線におまかせってわけだ。ここが、愛知と岐阜の広域で、名古屋を中心とする独自の鉄道網構築をめざす名鉄とはことなる。以降、まずは北上。1915年に知立まで、1920年に土橋、上挙母、挙母まで、1922年に越戸まで、1924年に猿投までのびる。挙母はいまの豊田市。猿投までとびたとこで、1926年に電化。つぎは南下で、おんなじ1926年に大浜港から神谷までのびる。神谷はのちの松木島。また北上で、1927年に枝下、三河広瀬までのびる。さいごは1928年で、きたは西中金まで、みなみは三河吉田までのびて、三河鉄道64.8キロの全線完成となる。
ってことで、この1927年8月改正の時刻表は電化したつぎのとしのもんで、全線完成まであと三河広瀬-西中金間2.8キロと神谷-三河吉田間2.7キロだけをのこすっていう状況のときのもんだ。このときの開業区間は、三河広瀬-神谷間59.3キロ。
運行本数
みなみいきの電車について、運行本数をみてみる。刈谷新で1日22本。6時台から23時台まで、基本的に1時間に1本で、たまに1時間に2本のときがある。いまの三河線が15分間隔の運行で、猿投で1日72本、知立で1日70本あるのとくらべるとかくだんにすくない。
- 三河鉄道主要駅の運行本数(みなみいき) - 1927年8月改正
表定速度
おなじく、みなみいきの電車について、表定速度をみてみる。表定速度ってのは、停車時間もふくめて計算した平均速度のこと。里程については、三河鉄道当時の里程を筆者はしらず、いまの知立ができたあとの三河線の里程で代用した。
列車ごと
まずは列車ごとに、みてみる。ぜんぶで28本の列車が運行されとるだけど、それぞれの列車の表定速度をだして平均してみると、時速26.4キロになる。かなりおそいね。個人的見解だけど、「とにかく刈谷新につないで、あとは省線におまかせ」っていう三河鉄道の姿勢によるもんじゃないかな。表定速度のおそさはいまにひきつがれ、いまも三河線の表定速度は、猿投-知立間で時速32.8キロ*1、知立-碧南間で時速30.8キロ*2にすぎん。ちなみに、わが西尾線しんあんじょう-西尾間のいまの表定速度は、ふつうで時速40.9キロ*3、急行で時速50.0キロ*4だ。いまの三河線、西尾線の表定速度は、平日の12時台のさいしょの電車で計算してある。
△ 三河鉄道時刻表 - 1927年8月改正 - 表定速度 (1)
区間ごと
つぎに、区間ごとに、みてみる。きたがわの挙母-知立間が時速28.3キロで健闘しとる。いっぽう、みなみがわは刈谷新-大浜港間が時速24.8キロと、みおとりがする。知立-刈谷新間が時速39.4キロととびぬけてはやいのは、このかんで当時よりもながいいまの里程で計算しとることがえいきょうしとるっておもわれる。
- 三河鉄道主要駅間の表定速度(みなみいき) - 1927年8月改正
△ 三河鉄道時刻表 - 1927年8月改正 - 表定速度 (2)
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さいごに、ふるい時代の貴重な資料について、わがもとめに応じてこころよく提供してくださったあんじょうし歴史博物館の関係者にお礼もうしあげる。
(さんこう)