三河のくに碧海郡(へっかいぐん)は佐々木に上宮寺(じょうぐうじ)っていうおてらがある。佐々木は、おんなじ碧海郡にあるわがふるいのまちから東北方向にすすんで、河野(かわの)のまちのつぎのまちで、上宮寺は、おんなじ碧海郡にある本証寺(ほんしょうじ)、となりの額田郡(ぬかたぐん)にある勝鬘寺(しょうまんじ)とあわせて、真宗三河三か寺っていわれるおおきなおてらだ。
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山門はコンクリートづくり。おくにみえる本堂もコンクリートづくり。いや、おてらっぽくない。
山門のみぎに「岡崎市指定文化財」のかんばん。
「開基は聖徳太子。さいしょ天台宗だったけど真宗にあらためて、さらに高田派から本願寺派にあらためた。真宗本願寺は三河三か寺っていわれて、おおきな勢力をほこった。守護不入(しゅごふにゅう)の特権をめぐって徳川家康と対立。三河一向一揆の拠点となった。敗北后、1585年に再興がみとめられた」
って、かいてある。いや、聖徳太子の開基ってすごい。三河一向一揆敗北后の空白期間があるのに、ほのあとも真宗が三河最大の宗派であるってのもすごい。
山門をはいったひだりに、でっかいかねつきどう。こいつは木造だ。
かねつきどうのまえに、ふだんざくらとさるすべり。それぞれに説明がきのかんばんがあって、よんでみる。
ふだんざくら(不断桜)は、「一向一揆をゆるしてもらうにあたって、徳川家康の指示にしたがっておとずれた伊勢白子(いせしろこ)の子安観音寺(こやすかんのんじ)でわけてもらったもんだ」とのこと。
さるすべりは、「当時一高、いまの東大の数学教授にして文人でもあった数藤斧三郎(すどうおのさぶろう)が、上宮寺住職の養子の佐々木月樵(ささきげっしょう)をたずねてきて、1か月あまりの逗留をおえてかえるひにかねをつく機会をあたえられて、ほこで『さるすべり かねつけばちる あしたかな』の句をくちずさんだ」っていういわれのあるさるすべりであるとのこと。ちなみに、佐々木月樵の旧姓は山田で、わがふるいのまちにある願力寺(がんりきじ)の出身だ。
コンクリートじきの参道をすすんで、本堂のはば以上のひろいいしだんをあがって、またちょこっとすすんで、本堂におまいり。いや、タージマハールか宇宙船かってふぜいの、コンクリートづくりのたてもんのまえでおまいりするってのもみょうなかんじだ。
みぎにつながるおくりも、ひだりにつながる宝物殿もコンクリートづくり。
ひだりてまえに顕彰のいしぶみがあって、よんでみる。
「三河一向一揆の敗北のあと、再興がゆるされるにあたっては、徳川家康の親戚すじにもなる妙春尼のはたらきがあった。岡崎城主田中吉政の勧進(かんじん)によって18間4面の大伽藍が寄進されて、三河最大の木造建築になった」。
ほー、1590年に徳川家康が関東移封(いほう)になって、岡崎城主は田中吉政になっただけど、ほの田中吉政が上宮寺の再建をてだすけしただ。
さらによんでみる。
「1988年8月31日出火全焼。5億円あまりの寄進をえて、目前にせまる21世紀の寺院のあるべきすがたを勘案して再建。完成は1996年3月ここのか」。
うん、上宮寺ってやけただ。いや~、あの上宮寺がやけちゃったのか~って、当時話題になっとったこと、おもいだしたよ。火事をだしちゃったことの反省もあって、いまのこのコンクリートづくりの本堂にしただ。まあ、かんがえてみたら、おてらが伝統的な木造建築じゃなきゃいかんっていう法はない。正直、このコンクリートづくりの本堂をさいしょみたときは失望しただけど、このいしぶみの文章よんで再建にあたっての苦労におもいをはせて、この前衛的な外観の本堂、がんばれ!ってきもちにかわった。
境内ひだりがわに、よせむね、かわらやね、しらかべの経堂。かねつきどうやこの経堂はやけんかっただ。
かえりがけ、山門のあたりで住職に、おまいりと見学をさせてもらったことの礼をいう。ずーっと境内まわりのくさかりをやってみえてくちをきく機会もなかっただけど、ちょうど作業がおわりになったのをみてのことだ。ついでに、宝物殿はいつみることができるのかきくと、おてらの行事のときと、あと、予約してもらえや見学できるとのこと。さらに、予約はひとりでもいいって。しんがたコロナウイルスさわぎがおわったら、いかにゃ。
〔2020年4月16日訪問〕
(さんこう)
- 上宮寺の資料 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/04/17
- 勝鬘寺(しょうまんじ) - あきひこゆめてつどう|2020/04/15
- 佐々木月樵(ささきげっしょう) - 古井の偉人 - あきひこのいいたいほうだい|2015/03/07
- 広報あんじょうの2015年2月15日号にあんじょうの偉人として佐々木月樵(ささきげっしょう)がでとった。
- 「明治、大正時代の仏教学者、教育者として有名な佐々木月樵(ささきげっしょう)は、本証寺(ほんしょうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)とともに三河三か寺とかぞえられる上宮寺(じょうぐうじ)の僧です。1875年4月13日、古井町の願力寺(がんりきじ)にうまれました。小学校卒業后、宗派の養成学校である岡崎の三河育英教校へすすみ、1893年からは京都の中学へうつりました。ここで師である清沢満之(きよざわまんし)にであいました。清沢満之は哲学者で、のちに碧南の西方寺(さいほうじ)の僧となるひと。まあはい学僧として頭角をあらわしとった佐々木月樵は1898年には上宮寺にむこ養子としてむかえられます。翌年1899年から著作がつぎつぎにうみだされました。后年まとめられた全集をみると、専門的な仏教の論文のほかに、『親鸞聖人伝』のような一般むけの名著もあり、学問のはばのひろさがうかがえます」
- 「1900年、東京にうつった清沢満之のもとに有志があつまり、「浩々洞(こうこうどう)」っていう私塾がひらかれます。佐々木月樵はほの中心人物のひとりで、学友である暁烏敏(あけがらすはや)や多田鼎(ただかなえ)とともに、浩々洞の活動をささえ、3人は浩々洞の三羽がらすってよばれました。浩々洞からはほかにも、仏教の近代化にちからをつくす逸材が多数輩出されております」
- 「ほのあと佐々木月樵は、大谷大学の前身である真宗大学の教授に就任します。仏教の研究をふかめながら、世界にむけて仏教を紹介することにも関心をよせ、いっぽうで后進をそだてるしくみの確立にも情熱をそそぎました。1921年には文部省の要請でヨーロッパ、アメリカへ「教育宗教事情視察」にでかけます。とくにイギリスの寄宿舎制度にはおおきな関心をよせました。1923年に大学令による私立大学として大谷大学が再出発すると、翌年1924年には佐々木月樵が学長に就任、帝国大学とはちがった独特の方針をうちだし、宗派の内外からおおきな信頼がよせられました」
- 「ところが就任后の1926年3月11日、入院しとったあんじょうえきまえの病院で佐々木月樵はなくなります。50才、まんだまんだかつやくが期待されるなかでの急逝(きゅうせい)でした」
- なるほど、大谷大学の学長をやるようなえらいひとが、わが古井からでとっただ。いま、2011年3月に古井町歴史研究会がだした「古井の史跡」っていう冊子をみてみると、ちゃんと佐々木月樵のなまえがでとるわ。
- 佐々木月樵 - Wikipedia
- 佐々木月樵(ささきげっしょう、旧姓山田、1875年4月13日 - 1926年3月6日)は、日本の仏教学者、教育者。愛知県出身。大谷大学教授。のち大谷大学学長。清沢満之門下。愛知県出身。著作に『親鸞聖人伝』、『支那浄土教史』などがある。
- 三河国古井の真宗大谷派願力寺に生まれる。幼少時、豊后国日田の咸宜園(同派長福寺の学寮を起源とする)に学び、1888年、東本願寺の設置した三河育英教校に入学。その后、1893年、京都府立尋常中学校に編入、翌年には東本願寺設置の京都第一中学寮に入学した。1896年、同校卒業。真宗大学(后の大谷大学)に入学、1900年、同校卒業。この間、1898年、愛知県矢作町の真宗大谷派上宮寺住職の養子となり入寺、佐々木と改姓しておる。
- 上宮寺|岡崎の観光スポット|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト
- 真宗大谷派太子山上宮寺(愛知県岡崎市) – じょうぐうじ、浄土真宗、親鸞、念仏、三河、聖徳太子、佐々木月樵、三河一向一揆、如光
- 浄慶寺と正福寺 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/04/18 〔ついか〕