東大友町にある大友皇子御陵

2020.8.6 (12) 東大友町 - 『大友皇子御陵』 1920-1500

小針(こばり)に大友皇子のはかがあるのに、おんなじ矢作地区北部の東大友町(ひがしおおどもちょう)にも大友皇子御陵があった。西大友町にある、大友皇子を祭神とする大友天神社をみたほのあしで、みてきた。大友皇子は、おもてむき壬申の乱で自害においこまれただけど、じつは三河におちのびてきとったとのこと。

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東大友町の大友皇子御陵

2020.8.6 (11) 東大友町 - 大友皇子御陵全景 2000-1500

ばしょは国道1号線の暮戸東(くれどひがし)交差点からきたにちょこっとはいったとこ。住宅街のなか、暮戸東交差点からきたにのびる生活道路に、ひがしに面してある。まんなかに『大友皇子御陵』のいしぶみ。みぎに『淡海朝大友皇子乃詩・二首』のいしぶみ。ひだりに『大友皇子遺跡』のいしぶみ。さらにひだりにかさいしつきいしぶみ。全体に南北にほそながくて、まわりをフェンスでかこってある。ひがしどなりは民家。ちなみに、暮戸東交差点のまあひとつにしの暮戸交差点からきたに、基幹道路である長瀬みなみどおりがのびとって、このばしょは、ほの長瀬みなみどおりのうらになる。

2020.8.6 (12) 東大友町 - 『大友皇子御陵』 1920-1500

大友皇子御陵』のいしぶみは四角柱のいしぶみ。うらめんに「1908年10月1日村社へ合祀」ってかいてあるだけど、村社ってのは西大友町にある大友天神社のことか、あるいは、おんなじ東大友町にある神明社のことか。ほいから、村社へ合祀したっていうと、この『大友皇子御陵』のいしぶみはどういう意味でのこしてあるのか。

2020.8.6 (13) 東大友町 - 『淡海朝大友皇子乃詩・二首』 1990-1490

『淡海朝大友皇子乃詩・二首』のいしぶみ。淡海朝は近江朝の意味。ちち天智天皇とこ大友皇子の2代、みやこは近江大津宮にあった。2首は『宴に侍す(うたげにじす)』と『懐を述ぶ(こころをのぶ)』で、にほん最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』に「淡海朝皇太子」としてのっとるもん。うらめんに「1985年11月20日弘文天皇御陵参拝記念|神明社氏子会有志」ってかいてある。弘文天皇ってのは、明治になって大友皇子につけられたおくりなだけど、大津にある弘文天皇御陵に参拝にいった記念にこのいしぶみをたてたのか。神明社氏子会ってかいてあるのをみると、さっきの村社も東大友町にある神明社をさしとるのか。

2020.8.6 (10) 東大友町 - 『大友皇子遺跡』 1570-1200

大友皇子遺跡』のいしぶみはくろい石板のいしぶみ。うらめんに、「天皇在位60年記念|1985年10月8日移設|神明社氏子会」ってかいてある。1985年は『淡海朝大友皇子乃詩・二首』のいしぶみとおんなじだけど、移設ってのはどういうことだ。どっかからこのいしぶみをここに移設したのか、あるいは、ここにあったなんらかの遺跡をどっかに移設して、ここにはしるしとしてこのいしぶみをのこしてあるのか。

2020.8.6 (16) 東大友町 - かさいしつきいしぶみ(東南面) 1520-1460 2020.8.6 (17) 東大友町 - かさいしつきいしぶみ(西南面) 1450-1500

かさいしつきいしぶみは、四角柱のいしぶみに四角錐のかさいしがついとるもん。おもてめんである東南面にかいてあるのは「大友神社」の文字か。ひだり側面である西南面にかいてあるのは「LS」の文字か。いや、ほんなはずはない。

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なぞがいっぱいの大友皇子御陵だった。こっからきたにちょこっといくと、東大友神明社がある。ほこでなぞがとけるのか。

2020.8.6 矢作地区北部の地図(あきひこ) (2) 1360-1520
(かくだい)

〔2020年8月むいか訪問〕


(さんこう)