五街道

2021.11.29 (10005) 週刊現代 - 5街道の地図 2070-1380

週刊現代の記事に五街道の記事がのっとった。ようきくことばだけど、東海道中山道のほかはなんだったかな。甲州街道日光街道奥州街道か。ずいぶんとひがしにほん中心だ。にしにほんの区域には東海道の一部と中山道の一部があるだけだ。ちなみに草津から三条大橋のかんで東海道中山道は重複する。

あと、わきかいどうはよっつ。東海道を岡崎から分岐して飯田につながる中馬街道(ちゅうまかいどう)。別名足助街道(あすけかいどう)。京都大原からきたに小浜につながる若狭街道中山道を追分から分岐して高田城下につながる北国街道。日光街道を終点にちかい今市から分岐して若松城下につながる下野街道。

五街道としゅくばまちはこうしてつくられた

週刊現代
2021年11月13日・20日合併号

  • 1600年、徳川家康関ケ原の戦いに勝ち、天下を取った。すぐさま家康は諸策を講じたが、そのうちのひとつが 「五街道の整備」だった。五街道とは東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道の5つで、幕府直轄地の管理や経済の活性化に不可欠だったのだ。
  • 歴史家で、最新刊に『江戸の旅行の裏事情~大名・将軍・庶民それぞれのお楽し み』がある安藤優一郎氏が 解説する。
  • 「最初に東海道が整備され、53の宿場町も順次作られま した。宿場は言ってみれば人工的に生み出された町です。だから、似た町並みのところが多いのです。
  • 宿場町を運営するのは、周辺の集落から集められた人たちでした。彼らは幕府の公用で旅する人のために、人馬継立(じんばつぎたて/宿場ごとに人馬を替えて、荷物などを引き継いで送ること)の人員と馬を常に用意しておかねばならず、東海道の各宿場には100人100頭の負担が命じられた時期もあった ようです。
  • また、宿場町を通る道の両端には『見付(みつけ)』が設置さ れておりました。この施設を使って、幕府は通行する人の監視を行なっておりました」
    2021.11.29 (10004) 週刊現代 - 5街道としゅくばまち 1530-2280
  • 五街道以外にも、藩が管轄する「脇街道」と呼ばれる道も数多く整備された。大内宿のある下野街道はそのひとつで、地図にはこの特集で紹介する宿場町のある脇街道を掲載した。
    2021.11.29 (10003) 週刊現代 2021.11.8 発売号 1200-900